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中央テレビ編集 


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自治随想
選挙とは、いかにあるべきか、政治の本質は如何!
 11月26日、田中総理が金脈問題で退陣表明、自民党は後継総裁選出を巡り公選を主張する大平・田中派と話し合いによる選出を主張する福田・三木派は譲らず、党執行部は椎名悦三郎副総裁に調整を一任、椎名は11月29日に三木・福田赳夫・大平正芳・中曽根康弘の4実力者を招き個別に会談、この会談で椎名が大平に「つなぎの政権をつくり、そのあとで本格的な政権をつくればいい」と説得したところ、大平は椎名が暫定政権に色気を出したと思い、会談後に「どうやら行司がまわしを締めて土俵に上がる気があるらしい」と発言、椎名は大平に不快感を抱いたとか?翌30日、椎名と4実力者の5者会談が開かれたが、進展は見られなかったという。この夜、椎名は裁定によって三木を選出することを決意、人を介して大平以外の三木、福田、中曽根の3人にそれとなく伝えた。そして翌12月1日に裁定を下した。5者会談冒頭メモを取り出した椎名副総裁は「新総裁は精錬なることは勿論、党の体質改善、近代化に取り組む人でなければなりません。このような認識から私は新総裁にはこの際、政界の長老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ここにご推挙申し上げます」と。
 三木は顔を紅潮させ「光栄であり、この際、国家、国民のため一身をなげうつ決意である」と答えた。小派閥の三木には思いがけない就任であり「青天の霹靂」と周囲に語る感激だ。こうした話にはつきものだが、裁定役の椎名が三木を指名すれば皆が反対して、最終的には自分が漁夫の利を得るだろうと目論んでいたという見解もある。しかし、椎名の「仕返し」によって三木選出を知らされていなかった大平以外はすんなりと裁定を認める。かくして三木政権が誕生する(12月4日自民党両院議員総会)。12月9日田中内閣総辞職、三木内閣成立。14日、「清潔で誠実な政治、インフレ克服を最優先、国民・世界と共に歩む政治」を内閣の姿勢とすると表明。27日、三木試案として総裁選改革と政治資金の規制強化・選挙腐敗の防止案を提示する。組閣時の内閣支持率45%(不支持率19%)。顔ぶれは派閥均衡、永井道雄教育社会学者を文部大臣に、福田赳夫を副総理兼経済企画庁長官、大平大蔵大臣、中曽根党幹事長という挙党態勢を組む。12月末からの三木内閣初第75回国会で政治資金規正法と公職選挙法(選挙2法)の改正と独占禁止法(独禁法)改正案、自民党の総裁選挙改革をかかげる。審議は党内からの反発もあって大もめに揉め時間切れ廃案、酒・たばこ・郵便などの値上げ法案が時間切れ廃案、法案通過で2000億円増収見込みが叶わず財政面で痛手となる。波乱の国会が翌昭和50年7月に終わり自民党党内反対勢力に対応し、独禁法改正では椎名副総裁には9月からの臨時国会で改正案を提出しない約束をし、党内タカ派に対し靖国神社を「私人」として参拝すること、台湾との航空路線復活を認める。外交面では8月にフォード大統領との首脳会談のため8月米国へ、米国留学経験を持つ三木は機会あるごとに「日米友好関係の維持・強化が日本外交の基軸」とし、フランス・ランブイエの先進国首脳会議(サミット)参加、公労協とのスト権を巡る対立などに対応に明け暮れ、政界激震の新年を迎えるのであった。
 昭和51年(1976)2月初め、ワシントンからの1本の外電が政界に激震をもたらす。アメリカの航空機メーカーのロッキード社が自社の航空機トライスターの売り込みのために、30億円の裏金を日本の企業や右翼に流し、その一部が日本政府高官に渡されたという内容、「ロッキード事件」の発覚であり、「三木おろし」の始まりだ。野党、衆院予算委員会を舞台に一斉に追及をはじめほかの審議はストップ、三木はすぐさま真相究明の立場を表明する。三木のロッキード事件への熱意は明らかに「政府高官」を解明しようというもの、自民党内ではその高官に田中角栄が含まれるのでないか、そうなれば党の打撃必至だ。「三木はロッキード事件追及によって内閣延命を図るつもりか」との不満が党内に満ち、椎名副総裁は「はしゃぎ過ぎ」と評し、田中、大平、福田と会談、総選挙前に三木退陣というシナリオ、「三木おろし」で一致する。この秘密会談がすっぱ抜かれ、世論から「三木おろしはロッキード隠しだ」と大きな批判を受ける。ロッキード疑惑解明という大義名分を掲げた三木は世論を味方につけ、三木おろしを頓挫させた。6月には党内のゴタゴタに愛想を尽かせ河野洋平ら若手議員6名が新自由クラブを結成する。
 7月27日、田中前総理が外国為替管理法(外為法)違反などの容疑で逮捕される。これによって田中派の力が削がれる一方、三木への憎悪を掻き立てる側面もあり、再び「三木おろし」が始まる。対する反三木派の結束と総選挙敗北に言及する。田中、福田、大平の反主流派3派と椎名派ら中間3派の総勢270余名は、三木おろしの推進体となる挙党体制確立協議会(挙党協)を発足。後々に聞かされたやり取りの話だが、大平と福田は三木に退陣を迫るが、三木は「私の跡はどちらがやるのですか」と尋ね、両名が「まだ決まっていない」というと、「決まっていないのでは辞めるわけにはいきませんね」とやり返した。挙党協と三木の対立は党分裂の危機をはらんだが、党幹事長の中曽根調停により三木が臨時国会で解散しないと約束することで収拾し、三木の進退は三木自身が決めることになる。三木の粘り勝ちと言えそうだ。9月15日三木は内閣を改造して福田、大平以外の反三木閣僚を更迭。混乱する政局の中12月5日戦後初めての任期満了による衆議院議員総選挙、自民党にとって衝撃的な大敗、「敗北の責任は総理・総裁である自分が負う」と表明、12月23日両院議員総会は福田赳夫新総裁を選出、翌日クリスマス・イブに三木内閣総辞職する。
 池上彰流「三木政治」のポイントは「バルカン政治家」、即ち「大国間の複雑な軋轢の中で、自己の立場を切り開いていったバルカン諸国(ヨーロッパ南東部のバルカン半島にあるギリシャ・アルバニア・ブルガリア・旧ユーゴスラビアの諸国)」に由来していると見る。少数派閥のリーダーである三木が、金権批判の嵐のなか信頼を回復するために政権の座に就き、政治献金や選挙制度改革に乗り出し、発覚したロッキード事件に対して世論の支持のもと徹底究明を目指し、自民党内大派閥による5次にわたる「三木おろし」に対峙する。議会制民主主義こそ最も安定した政治制度であり、政治は国民の信頼を得なければ成立しない、国民との対話こそ肝要だ、官僚政治は受け身の政治であり自らの政策ではないといった「議会の子」を貫く。その心情は「クリーン三木」、即ち30歳初当選以来カネのかからない政治を主張し「クリーン三木」政界浄化に徹した。昭和39年池田総裁3選後では、二つの派閥から金をもらうことを「ニッカ」、三つの派閥からもらうことを 「サントリー」、全部の派閥からもらうことを「オールド・パー」と言われたほどだった。さらに、明大学生時代から何度も海外を巡り世界情勢を見て政治家を志し、対話による外交が世界平和の道であると考え、各国を巡り幅広い国際的人脈を築き、総理就任前に起きた石油危機では中東を歴訪し中東和平を懸命に説き、石油輸出削減解除に成功、総理就任中には第1回先進国首脳会議に出席し途上国援助を強く訴えるなど国際派政治家の言動を貫く。「信なくば立たず」である。
 熾烈な阿波(徳島)戦争は昭和49年(1974)参議院選挙徳島地方区で表面化、池上彰著書に拙著の~徳島に起こった日本政治の転機現象~「阿波戦争」の臨場感を加筆する。三木派の現職久次米健太郎に田中内閣官房副長官後藤田正晴が公認候補として立候補、対して世間は田中が子飼いの後藤田を徳島に送り込み三木の地盤を切り崩す意図ありと喧伝、三木対田中の代理戦争の様相を呈する。応援に来県した田中総理は、「手続して決めたことは守るべきだ、守らない者は対応する」と、自民党県連支部会、小学校運動場での応援演説も強気、そうした状況は各地に広がり、遠くワシントンポストにも掲載される。すさましい選挙戦には「銭挙選」「泥試合」の声も上がり、候補者後援会事務所の立て看板は数百mおきに県下全域に乱立する有様だった。三木は応援で徳島入りしなかったが久次米が当選、この保守を二分する参院選は中央からコントロールするかのような選挙を県民が受け入れず、人物や実績を基準にして純粋に判断を下したものと言えるのではないだろうか。
 しかし残念ながら多数の選挙違反者を出し、双方に大きなしこりを残すことにもなった。非公認の久次米196,210票、公認の後藤田正晴153,388票だったが、県民の同情票とか公認取得のための競合とか様々に考えられるが、「真如」「無信不立」「対話と協調」の基本的取り組み姿勢が何よりも重要視されることが明記されなければならない。

(徳島文理大学総合政策学研究科元教授 西川 政善)