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中央テレビ編集 


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自治随想
沖縄返還、ポスト佐藤、田中総理へ
 昭和35年(1960)7月19日池田内閣成立。経済の高度成長・所得倍増政策を高く掲げ、国民の関心を経済問題に集中させ、特に日本政治に経済理論を導入した点が高く評価される。しかしその一方で、安保闘争と三池争議等を通じて注目される一連の右翼テロのひとつ、社会党浅沼稲次郎委員長の日比谷公会堂演説会場の池田勇人首相面前での刺殺事件(昭和35年10月12日)の衝撃が、特に私は学生弁論大会で同会場によく登壇した経験を持つだけに忘れられない。その後、昭和39年(1964)には日本の粗鋼生産は西ドイツを抜いて米ソに次ぐ世界第3位へ躍進、造船業は世界第1位の成績を続け、人口一人当たりの国民所得も世界1位の成長率で急上昇、逆に止まらない物価上昇、都市の過密化、交通麻痺、公害問題等をもたらす。輸入の自由化政策も円滑に進められ、昭和38年(1963)11月総選挙で自民党が絶対多数を制し池田内閣は日本の政治的安定を世界に誇示した直後、ケネディ米大統領が暗殺され不安な気配も世界に広がる。数年後、国会議員・地方自治体首長・自治体議員らの米国会視察団で訪米中に、ダラスのケネディ暗殺現場を訪れ事件当時の説明を受け改めて弔意を示し、民主主義を守るための対応を日米ともに力を合わせる誓いを共有、翌39年10月東京オリンピック開催、私も国立陸上競技場のボランティア活動で連日参加、大成功の感激を共有した。その後、ソ連首相フルシチョフの解任が16日発表され、同日、中国が第一回の核実験に成功、オリンピック閉幕の翌日に池田首相が病気治療のため退陣表明、11月9日佐藤栄作内閣がスタートする。世界最初の原爆攻撃を広島、長崎に受けて以来日本は自ら核武装しない方針を堅持し、全世界に核兵器反対を叫び続けてきただけに、佐藤内閣がわが国を取り巻く内外情勢にどうかかわっていくのか、という懸念も広がる。昭和40年(1965)南ベトナムの軍事情勢悪化に伴いサイゴン政府崩壊の危機に瀕するとして、米国は北ベトナムに対する爆撃を開始し大量の地上軍を南ベトナムに投入し、ベトナム戦争を格上げする。佐藤内閣は昭和42年(1967)サイゴン訪問、グエン・カオ・キ首相と会談するが、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止のため全学連学生と警察隊が衝突、双方各2千人を超す衝突で京都大生1名死亡、警官642人、警官642人が重軽傷を負った。その後佐藤首相は11月12日ジョンソン米大統領と沖縄・小笠原問題を話し合う為に訪米、その共同声明は佐藤首相がアメリカのベトナム政策を支持したことを示すと共に、小笠原を日本に返還すること、沖縄の施政権を返還するための話し合いを継続することを確認し、沖縄問題は数歩前進だが祖国復帰はまだ決まらない状態だ。沖縄祖国復帰の式典が九段武道館で行われたのは昭和47年(1972)5月16日だ。戦後27年にわたる米軍の沖縄占領の終結、沖縄の日本復帰は戦後外交史の上ではサンフランシスコ平和条約、日ソ共同宣言と並ぶ里程標でありながら、各紙夕朝刊の報道は佐藤内閣の功績として報道しなかった。
 今国会を持って、佐藤首相退陣へ。ポスト佐藤を目して、各派一斉に動くといったトップ見出しを掲げ、懸案法案(健康保険法改正・国鉄運賃値上げ法案など)対応、佐藤本人の総理・総裁人材案の基本的考え方等々をテレビ等で直接国民に訴えるという本人の考えと相容れないオブザーバー出席の新聞記者の対応から、佐藤首相の発言「新聞は偏向している。記者の皆さんとは話さん。テレビで直接国民と話したい」、記者席「それじゃあ、出ようじゃないか」、「どうぞ」、ガランとした会見室で、佐藤首相はテレビカメラに対峙、こうした前代未聞の唖然とした会見となる。かくして佐藤政権は終わりを告げたが、田中角栄氏が首班指名を得る7月4日まで続く。3次に亘る在任期間はほぼ7年8カ月、明治18年(1885)伊藤博文初代首相以来の内閣史上では、3次にわたる桂太郎7年11ヵ月に次いで2位の長期政権記録。4次にわたる伊藤博文の7年7ヵ月を抜くこと1ヵ月、5次にわたる吉田茂の7年1ヵ月を超えること7ヵ月となった。
 余談だが終戦3年前に出生した私ども世代には沖縄復帰記念日の昭和47年(1972)5月16日は感慨深い日だ。話を聞く、本で読むだけでなく、この目で見、肌や心で感じ万々万分の1僅かでもいい全身で沖縄の土地・水・空気・息遣いなどに触れ感じ受け止め何か役立ちたいと思い続けてきた。その地に沖縄復帰後まもなく日本青年会議所協賛の沖縄復帰記念集会が現地各所テーマごとに大々的に開催され、小松島青年会議所から川風芳七理事長、平山始弘県議、不肖西川等が沖縄各地へ、麻生太郎日本JC理事長はじめ会員千人余が参加、那覇港、米軍基地周辺、国際通り、名所旧跡、英語が飛び交う日常生活、本土の自動車左側通行とは真逆の右側通行等アメリカ風を随所に感じる日常生活を垣間見る。ひめゆりの塔、海岸線、岸壁、洞窟跡、戦闘跡等々身につまされる感傷と一日も早い沖縄再興を願いつつ…。
 昭和47年(1972)7月4日田中内閣成立。佐藤後継の予想外れを様々に指摘される中で、石原慎太郎氏(芥川賞受賞、参議院議員、元東京都知事)著「小説天才」(2016)の記述を引用する。先ず田中の政治家人生を振り返り、議員立法を一人で40ほど通した議員、郵政大臣時には1日でテレビ放送局に大量の免許証を交付し1960年代以降の日本のテレビ勃興に大きく寄与、首相就任3カ月後に日中国交正常化に向け、周恩来・毛沢東との会談実現など電光石火の行動をとり、「日本列島改造論」で地方の貧困解消に取組み山あり谷ありの細長い国土に縦横無尽に高速道路と新幹線を張り巡らせ、各地方に飛行場をつくり上げる、港湾を整備する等々地方に住み地方創生に躍起となる多くの地方人を奮い立たせた。彼は25歳で起業、当時の田中土建工業資料では売り上げが全国上位50社入りの商才を示し、日本のエネルギー問題では、原子力発電所を各地に造り、その代わりに地方に交付金を出す現在に至る仕組みを整える。当時の日本は日本のエネルギー供給をアメリカに依存、日本が独立国として独り立ちするにはエネルギー問題解消は必修課題、資源国でない弱みを解消しなければならない。その為に原発を造りかつ独自の資源外交を繰り広げ、フランスやイギリス、西ドイツやソ連と、エネルギーの共同開発などを議論する。このアメリカを飛び越えた各国交渉がロッキード事件に繋がったという指摘もある。しかしこうした「稀代の発想力」、人間の価値は発想力で決まると言わんばかりだ。人の考えないことを考えつく発想力、人がやらないことをやってのける行動力。現在だけでなく、未来をも見越してビジョンを描ける能力。それが才能。角さんの発想力は群を抜いていた。今の日本の土台の殆どは彼がつくり上げた。佐藤栄作さんとは白洲次郎さんの紹介で文壇のゴルフでよく会うようになった。「どうして田中さんはダメなんですか」と、佐藤さんが自らの総理退陣後の後継を、角さんではなく福田赳夫氏にと目指している雰囲気だったから。その答えが「ダメとは言わないけれど、総理になるにはまだ足りないものがある」と。「それは何ですか」と再問、だが答え無し。強いて言えば「品」、人間としての根本的な違いなのかも知れないと、著書や後日談で語られている。石原慎太郎著「小説天才」(2016年)同様に、昭和49年(1974)~昭和51年(1976)第66代内閣総理大臣について池上彰「日本の総理三木武夫」(小学館)を参照・次回記述する。

(徳島文理大学総合政策学研究科元教授 西川 政善)