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中央テレビ編集 


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自治随想
<量的削減から質的充実へ>

時代転換期の変動
  1980(昭和55)年前後、バブル経済や政治を巡って好ましくない様相が次々と露呈し、国民は金権腐敗の政治に戸惑い、極端な政治不信に陥った。このままで推移すれば国政が危なくなるといった国民の声を背景に、東京地検が元首相や副総理を逮捕するなど国会議員が大バッシングを受けている。同時に、中央官僚が官官接待を受けているととられかねない実態が明るみとなり、大きな批判を受けている。これらの出来事は成長社会から成熟社会に移って行く過程において、国民がその容認から危うさを察知し政治の流れを変える必要があるとした感覚が背景にあったように思われる。言うなれば、時代の転換期に必然的に起こりうる現象と言えそうだ。
 こうした大バッシングを契機にして、国政で政治改革運動が起こり、その結果94年の公職選挙法改正、政党助成法制定、95年地方分権推進法制定などに結実していく。
 ところが、分権時代が始まると同時に、今度は積極的な政治活動を展開していた地方自治体側が公金の不適切使用などで地域住民からバッシングを受け、多くの首長や地方公務員がやり玉にあがる。こうして悪しき慣習は一掃され、長年の中央集権体制の悪弊をたち切る大改革が進み、これもまた時代の変化がもたらす必然現象と言える。
 しかし地方分権で形式的な要件整備は進んだものの、実質面ではほとんど変わらず、2014年頃から実質的な成果を期待して地方創生関係法が制定されるのである。
 地方創生は地域がこれまでの中央依存から脱却して自己決定、自己責任で自立することが要求される。つまり従来からの執行中心の地方自治体から脱却し、地方も政治を行う地方政府にならなければならない。
 首長執行部の覚悟と責任は極めて大きくなるが、一方で議事を通じた決定機関の議会も、単なる従来の監視機関だけでなく、政策決定に当ってあらゆるところで関与し、必然的に議会の重要性が格段に大きくなってくる。
 ところが、議会の役割が増すことを想定して創設された政治活動費が不適切に使用されていたことが全国規模で発覚し、住民の怒りが地方議会に向けられる。
 国会議員、中央官僚、地方の首長執行部がそれぞれの転換期にバッシングを受けて抜本改革に向ったのと同じく、地方議会バッシングも時代変革期の現象と真摯に受けとめ、地方議会自らが過去の慣習から決別する覚悟をもって抜本的な改革に取り組まなければならない。
 以上のような時代変遷と現象が、その時期を相前後して露見し、改革が行政経営の視点を含めて進行していく。


政治活動費の必要性 

  私の知る限り抜本的な改革に踏み込んだ地方議会のほとんどは、他自治体を視察して多くのことに気づかされたことがきっかけとなって大改革に発展しているようだ。
 もとより政治活動費の無駄使いや不適切な使用は論外である。しかし、だからといって政治活動上必要不可欠な活動経費は認められて然るべきであろう。「あつものに懲りてなますを吹く」ようなことがあっては、地方再生、地方創生の実現は遠のく一方であろう。
 私が関係する早大マニフェスト研究所によれば、全国で政治活動費のない議会が49%あり、従来の監視機能のみが期待された集権時代の名残りを色濃く示している。また政務活動費が月1~2万円程度の議会も多く、十分な政務活動が行われるには不十分な気もする。 逆に言えば、地方創生時代に地方議会が果たす役割を議員それぞれが考え直し、自立した地方政府確立のために従来以上の政務活動費を住民に納得してもらって、新設若しくは増額することも必要かとも思われる。
 私の現役時代を含めて長く議会と首長部局とは車の両輪に例えられ、両者がうまく回るようにするのが双方の役割だと思われてきた。集権時代の名残りと言えそうだが、議会事務局職員の最大の任務もそこにあった。そこには住民に対する視点が若干欠けていたというキライもあり、反省も感じる。
 一連の政務活動費不適切使用の発覚時において、議会事務局サイドは「領収書を不審に思っても言い出せなかった」など、議会と執行部への配慮が先行した対応が目立つ。開示請求した人の名前を議会に報告する極端な事例、言わば民主主義の原点にもとる対応もあったようだ。私の友人が議員の横浜市議会では議会事務局から議会局に名称を変更し、昔の書記官制度まがいの呼称とおさらばしたという。優秀な事務局職員が議員と一体となって、議会の仕事に自分事として取組み能力を最大限に発揮させ、成果をあげている。「事務局職員は議員の仕事分野には立ち入らない」という半ばルール化したしたものからの脱却を目指したと言う。議員と議会局職員がチームを組み一丸となって議会改革に邁進し、成果を上げる最も有効な方法であり、従来と立ち位置を変えた抜本的な議会改革につながると思われる。


震災対応の教訓 

  私は、東日本大震災時に発災の半月後に、盛岡市、郡山市、遠野市、多賀城市、石巻市、東松島市、相馬市、南相馬市、いわき市など親交のあった市長を訪ね、見舞と激励、支援のあり方など協議した経験を持つ。その時の話題に首長部局への議員からの依頼、陳情の対応に相当苦慮した実態を伺った。意見交換の中から、議長を中心に議会内に災害対策会議を作って、これに首長執行部も対応する体制で住民の声を行政に反映せさせる対応方法もいいのではないか、という議論があったことを思い出す。
 熊本地震の際にも白門(中央大)市長会の同志である宇城市守田憲史市長にも提案したが、熊本県では大西熊本市長が同様の対応を早速取り上げているのを参考にして対策を練っているとのことであった。突然に、しかも待ったなしの災害というハプニングに、首長部局と議会という地方政府の核心部分が有効に機能する体制をすみやかに立ち上げた好例と言えよう。


量的削減から質的充実へ

 以上のように考えてくると、善政競争を前提に首長部局はもとより議会活動も、適切な政治活動をするための必要経費は、住民の納得が得られる適正なルールの下でその必要性は認められることになろう。もちろん先述のような無駄使いや不適切使用は断じて許されない。
 近年の議会改革は、勢い歳費削減、定数削減、政務活動費削減など、言わば量的削減がテーマとなっている。兵庫県議会、富山市議会はじめ多くの地方議会で問題となった。しかしこうした量的削減のテーマだけが問題ではない筈だ。二元代表制の一翼を担う議会の真の改革は、民意を反映した政策提案など立法機能の確立であり、議員の総体である議会全体での活動の充実、女性や若者が参加できる分かりやすい議会の実現、情報公開を徹底した信頼される議会の創造、言論の府として活発な討論の実践など、徹底した質的な充実改革こそが求められる。
 こうした真の改革が目に見えて進まなければ、市町村長や市町村議会議員の無投票当選が続出し、なり手がない、地方議会不要論の兆候まで現われ始めている。
 議会の不要論が話題になるのは、民主政治の根幹にかかわる問題であり、首長・議会や議員だけでなく、地方創生さらに日本の民主政治にとっても由々しき問題である。
 しかもこれらの問題は、国会議員・各級首長・地方議会議員自らの意思と行動によって、先ず改革を始めること以外に方法はないように思われる。
 全国の国会議員・各級首長・地方議会が、抜本的な改革を断行する時が来ているし、そうすることが18歳選挙権行使で若者の声の反映や投票率向上、無関心層の低減につながり、政治不信や無関心、議会不要論などの解消策の王道だと思われる。

                            (西川政善、徳島大学総合政策学部(兼総合政策学研究科)教授)