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中央テレビ編集 


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自治随想
政治と経済、ふるさと創生、外交等世界展望
政治と経済の関わり
 これまで概観してきたように戦後の日本経済は戦災からの復興とインフレーションの抑制を目標に、前者の高度経済成長期の代表例には経済成長積極路線(池田内閣の所得倍増計画、田中内閣の列島改造計画)が挙げられ、一方、後者の経済安定路線では佐藤内閣の均衡ある経済社会、福田内閣の経済安定路線(福田ドクトリン、全方位平和外交)に見られるように、戦後日本の経済は高い経済成長を背景に積極政策と消極若しくは抑制的な政策が交代しながら運営され、防衛費を抑制して経済復興を促そうとした吉田茂路線や1976年三木内閣閣議決定(防衛予算は国民総生産額の1%以内)の枠内議論も危うくなりつつある。1955(昭和30)~92(平成4)まで歴代内閣は12の経済計画(5か年計画)を策定、大平内閣(環太平洋構想・省エネ・生活大国・国際社会貢献)、鈴木内閣(第二臨調発足・行政改革・民営化)、内閣の頻繁な交代、日本のGDP拡大による絶対額が世界上位(約4兆円超)を超えるという課題も続出する。また1980年以降の市場経済のグローバルな拡大と欧米諸国による市場開放要求に、日本は経済大国として国際的な協調性を示すため積極的な対応つまり護送船団方式・保護育成政策から規制緩和・構造改革が日本経済政策のキーワードとなる。つまり単なる経済政策ではなく、その時々の政治を反映すると共に将来のあるべき社会ビジョンが求められる。1980年代の中曽根内閣では、日本経済の構造を生産重視・輸出主導型から国民生活重視・国内需要主導型へと変換を目指し、対外的にグローバル化する国際社会における経済大国日本の対応と国内での生産から生活へ、脱工業化社会へと国民の意識を転換するという分水嶺での政策に転じた(大来佐武郎レポート、前川レポート)。続く1988年竹下内閣閣議決定で「世界と共に生きる日本」(経済運営五か年計画)が戦後11番目の経済計画として纏められ、消費税導入と昭和64年(1889年1月7日)から平成元年元旦へ、更にふるさと創生・地域経済社会の均衡ある発展・ふるさと創生一億円事業へと繋ぐ。一方、竹下内閣下でのリクルート事件発覚をキッカケに政治改革、選挙制度改革、政治不信が高まりその責任から首相責任を問う動きとなり、中選挙区枠内での改革(制度維持派)と小選挙区制を中心に抜本改革派との対立激化が自民党分裂劇に繋がり自民党一党支配の終焉、7党1会派による細川連立内閣、二度にわたる政権交代へと推移する。地方に関して竹下内閣が外交や世界の環境問題で理解を示された。竹下首相は青年団活動の経験者としてローカルな課題を中央からしっかり支えられる政治家の一人であった。全ての市町村に対して規模の大小に拘わらず、全ての市町村に対し、使途の制限の全くない、一律一億円交付される「ふるさと創生事業」に対し、夢を持ち、追い、知恵を絞り、実現すべく共に語り行動を起こすなど、大いに活気付く。我がまちではできるだけ多く住民の会議においてアイデアを出してもらい最終的に八百数十年前の「日本一高い義経騎馬像」と、既に廃線となった旧国鉄小松島港駅前広場一帯を多目的に活用する市民広場(日赤病院・遊歩道・蒸気機関車と客車・遊具付き子供広場・世界一大きい金長狸像・図書館・サウンドホール・八千代橋・しおかぜ公園・自転車歩行者専用道路・駐車場等)、金長狸郵便局・商工会議所新築(競輪補助事業)等々まちづくり諸事業を全国発信する。
 1990年代以降の構造改革は、92年宮沢内閣「生活大国五か年計画~地域社会との共存を目指して~」により「国内における生活構造の改造と国際協調」を内外に示し、次の1995年村山内閣は第13次長期計画「構造改革のための経済社会計画」を閣議決定、「改革なくして成長なし」のフレーズの下、何が何でも日本経済の再生・再活性化を図る」気迫があった。私の記憶に残る村山首相の発言・姿を思い出すことの一つは、海上自衛隊観艦式でのことだ。地元に海上自衛隊基地があることから自衛隊横須賀基地の観艦式に招待された私は、首相と同じ自衛艦に乗船、静岡県沖海上において最高指揮官として礼服に身を包み、胸に手を当てトレードマークの長い眉毛を強風になびかせながらすっくと立って責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、平和の理念と民主主義とを推し進めると語り村山内閣最高の勲章との評価を得る。また、お盆徳島来県中に母校明治大阿波踊連で踊る長いまつ毛の村山元総理と同じ駿河台の中央大卒業同志が両国橋中央道踊り広場で楽しく励まし合いながら乱舞・会話に花を咲かせた体験が今、すぐここに蘇る気分に溢れるほどだ。後の「日経、私の履歴書」によれば、「今後も平和憲法の下で腹割って話せば解決できる。信義を尽くせば道は開けるよ」という人柄と誠実さが伝わるような気がする。
 話題が前後するが、1989年6月宇野内閣が「派閥の領袖でないと首相になれない」という自民党政権の不文律を破り、超短期内閣と非派閥領袖政権(総裁=総理=派閥の領袖)として歴史に名を残し、その69日後に参院選敗北、「山は動いた」(土井たか子社会党委員長)で退陣表明。宇野内閣が後世に残した課題は貿易不均衡是正を目的とした「日米構造協議の開始」(宇野―プッシュ首脳会議)の合意であり、その推進のための「自民党政治改革推進本部(伊東正義本部長、後藤田正晴本部長代理)発足とそこでの議論が小選挙区比例代表並立制導入に繋がり、その過程では党を二分する対立抗争、離党、新党結成等々様々な政治ドラマが生まれ、自民党一党支配体制の終焉を呼び込むことにもなる。日米構造協議対象の事業としてわが郷土では県と共に企画・実地した約30億円を超える市営住宅団地や小・中学校改築に直結する県道及び市道を本格的に拡張整備する事業に着手、数年継続する。順次、海部、宮沢、細川、村山、橋本、小渕内閣等へと国県との協議を重ねて継続関連事業を展開させてもらった。 次は1989年8月、昭和生まれ初の総理総裁海部俊樹内閣誕生だ。8月8日衆議院本会議第76代・48人目の首相指名、翌9日参院では土井たか子社会党委員長が指名され、両院協議会及び衆院本会議の「宣告」手続きを経て正式に首相となり、衆参ねじれの厳しい船出だ。竹下派の傀儡政権・選挙管理内閣、金丸信―小沢一郎ラインのパペット(操り人形)と揶揄されながら平成に入って初の衆院選は、国際情勢の変化所謂「ベルリンの壁崩壊(1989、11、10)」、湾岸戦争への対応、日米構造協議などの強い圧力の中での平成初の衆院選では、田中角栄・鈴木善幸・福田赳夫各氏はじめ与野党63議員引退・全立候補者中の約半数473人が新人候補という政権選択選挙となり、その争点は自民党政権か野党連合政権かの政権選択選挙となる。結果は自民党275安定多数、社会党136大躍進し自社二大政党型となる。勝利を納めながらも海部内閣は「金丸支配」「小沢神話」、「金竹小(こんちくしょう)」、「ykk(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎)」など党内実力者の意向も多出。外交では日米構造協議と湾岸戦争対応、北方四島日ソ共同声明(ゴルバチョフ大統領来日・日ソ首脳会談6回)と厳しい対応に迫られる。「重大な決意で臨む」と海部首相は発言している。全国市長会に出席していた私は三木武夫長女高橋紀世子さんと二人で海部総理に電話し「総理、国民の内閣支持率が高いのに辞めるのは理由が経たない。国民の意思に反しますよ」などと激励する。総理「よく分かる。でもなぁこれ以上やると政治も私もバラバラにされるよ」と。
 こうして11月5日、818日間で幕を引く。「ショー・ザ・フラック」「日本は金で解決、血は流さない」などと批判されトラウマの記憶となり、経済的にも12月29日東証大納会平均株価3万8千9百15円をピークに急落、バブル経済も崩壊する。  ここで大きく西洋政治に目を転じ、フランス市民革命を以下考察してみる。

フランス革命10年を翻って(杉本稔編西洋政治史」より)
 バスティーユ牢獄襲撃(1789年)から ブリュメール18日のクーデター(1789 年)に至る10年間は、フランスにおけ る市民的政治体制と近代的統治システ ムの創生期と位置付けられる。全人口 約2600万人のうち約2550万人を占めて いた「第三身分」の人々、即ち自営農民 ・小作農民をはじめ、都市部に住む民 衆(手工業・徒弟・小売店主・初期工 場労働者など)ないし下層市民、また、 徒弟に経済力を身に付けて新しい自由 な社会を望み、現状を批判するように なる中産市民や上層市民(商人・産業 資本家)も含まれる。  
 このようにフランスに市民的政治体 制をもたらすキッカケとなったフラン ス革命は、権力を掌握した階層・グル ープごとに「立憲君主制」から「穏健共 和制」「急進共和制(独裁・恐怖政治)」 へ、そして「穏健共和派による総裁政治」「ナポレオン個人を主体とする統領政治」へと、政治体制が根本から転換する大きな特徴となる。こうしてナポレオン以後、第5共和制成立(1958年~)に至るのだ。こうしたフランス革命の成果は、自由主義経済・地方分権主義・」合法主義に対し、中央主権主義・非合法主義・急進共和制への対立など、右から左へ、そしてまた右へと、政治の主導権と、その流れが「振り子」のように極端に振るようなフランス政治の特質となる。  
 しかしその一方で、地方分権・地方自治の立ち位置から見れば、「自分たちの地域社会を維持発展させる、地方分権・自治サイドからの取組対応を目指す」勢いとなる。

(徳島文理大学総合政策学研究科元教授 西川 政善)