中央テレビ編集
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自治随想
村上内閣スタート |
| 1994年6月29日第81代村山富市内閣総理大臣指名を受け三党共同のチームワーク優先を謡う。一方で「にわか仕立てのトロイカ政権」と生まれも育ちも違う自社が力を合わすと村山首相自身が言うようにどうしても不安が先立つ。例えば日米安全保障条約、自衛隊の存在、非武装中立論などわが国の安全保障の基礎をなす問題をどうするのか、社会党の消費税反対、国民福祉税構想への反発などの基本姿勢を如何にするのか等々をどうするのか。就任1週間後、ナポリの先進国首脳会議出席、「従来の外交・安全保障」という安全運転でクリントン米大統領との首脳会談を乗り切る。サミット疲れか体調を崩し河野副総理兼外相が代行、サミット中に北朝鮮の金日成死去のビックニュースもあったが外交デビューは社会党内の亀裂を広げたようだ。7月18日からの臨時国会では「人に優しい政治」「安心できる政治」をスローガンに「私は日米安全保障体制を堅持しつつ、自衛隊についてはあくまで専守防衛に徹し、国際情勢の変化を踏まえてその在り方を検討し、必要最小限の防衛力整備を心掛ける」「悲惨な戦争を繰り返してはならないという国民の決意に基づく平和憲法の理念を社会党が非武装中立政策として定式化したものと認識している。冷戦構造化では文民統制、専守防衛、海外派兵禁止などの原則を確立し大きな役割を果たしたが、冷戦構造が崩壊した今日ではその政策的役割を終えたと認識している」「長年の慣行により日の丸が国旗、君が代が国歌であるという認識は定着しており、私も尊重したい」などと社会党の基本政策の転換を次々表明、路線転換する。一方で「社会党らしさ」の喪失であり、事実上「社会党の終焉」を意味するものでもあった。更に税制改革では消費税率を3%から5%に挙げる決断を「歳入不足を所得税だけで賄うというのでは、税の仕組み上、日本経済を支えて働く中間層に負担がかかりすぎる。所得税減税の中でこの層に対する課税率を見直し公平性を担保すると同時に、国民から万遍なく負担してもらうために消費税を上げる」と判断した。この判断は自社さ連立政権維持のためと受け止められ、反消費税党を自認してきた社会党がさらに大きく揺れる原因となる。その後、消費税アップの法律が成立したのは18年後の野田政権時(2012)であるが、そもそも消費税を導入した竹下登・宇野宗佑両首相が短期間に退陣に追い込まれ、村山内閣も1年後の参院選での社会党大敗の結果弱体化し、実際に消費税5%を実施した橋本内閣も参院選惨敗で退陣、野田内閣は税率アップを実現したものの2012年衆院選で敗北を期すなど厳しい代償を伴う。こうした相次ぐ村山内閣による社会党の基本政策転換は、先ず社会党内部の解体の動きとなる。山花貞夫議員の党内中間・右派の勢力が動き始め、呼応するかのように共産党を除く野党十党派が新党結成を目指し動き出し、新生、公明、日本新党、民主、自由、新党、未来、高志会、リベラルの会、民主改革連合(参院)等の党・会派に及び、衆院190人規模の大統一会派結成を目指すというものだ。激しい駆け引きを経て公募による党名が「新進党」、党首海部俊樹・幹事長小沢一郎となり、結成時の国会議員は214人となった。しかし、反小沢勢力、公明党の衆議院議員全員参加、参議院議員の一部と地方議員を公明として残す「分割合流」という火種も抱え込む。海部党首「長い駅伝が始まる。光栄ある第一走者となった」、しかし新進党に参画した政党間の政策の違いから「寄木細工の政党」「選挙対策政党」という批評も当然のごとく出る。 歴史認識・天地鳴動と人柄対応 1995年1月17日午前5時16分阪神・淡路大震災、死者6434人、被災者役32万人。「初動の遅れ」が大きく批判される。戦後50年に当たるこの年の「人知が及ばぬ天変地異」を境に政治状況を激変させていく。しかし想いもよらぬ地下鉄サリン事件(3月20日、死者13、負傷者6千人超)、6月21日羽田発函館行き全日空機ハイジャック事件等々である。これらの水面下では政界の常とは言え権力抗争も進行。東京都知事選では自社さ・公明・自由連合五党推薦の石原信雄官房副長官が青島幸男氏に敗れ、大阪府知事選では横山ノック氏勝利、自民対新進の対立増田寛也(岩手)、北川正恭(三重)両氏が新進党推薦で当選、石原慎太郎氏が衆議院議員を突如辞職するなど政界は流動化する。 1996年1月~98年7月橋本龍太郎第82代首相、組閣(社会党から久保副総理・蔵相、自民党から池田行彦外相、梶山静六官房長、さきがけから菅直人厚相・田中秀征経企長官など)、自民党人事(加藤紘一幹事長、塩川正十郎総務会長、野中広務選対局長など)となる。橋本内閣キーワードは「景気と沖縄の人々の悲しみを受け止め日米関係の安定に努める」だ。バブル経済から日本の金融システムを守るために公的資金投入止むなしと、税金投入はもての外(世論)とする対立は日本政界特有の「玉虫色決着」で切り抜ける。もう一つの沖縄普天間問題については日米双方ともに自民党の首相復帰と社会党が与党である状況下で急展開を見せクリントン米大統領訪日時に、米ソ冷戦構造崩壊後の「日米安全保障体制再定義」が署名、確認されている。つまりこれまでの自国防衛から、極東地域全体への抑止力拡大と極東有事を睨んだ日米防衛協力の強化へと日米安保体制が大きく舵を切っている。さらに日本政界の常道として、各党各会派は党名を変えた社民党、友愛という絆を理念とする個人参加型新党の動きなど選挙に有利な体制を求めた胎動がうごめく。小選挙区比例代表並立制による初の総選挙(1996年10月20日投票)には、民主党が前衆院議員52、参院議員5計57人の「第三極」誕生、二人党首(鳩山由紀夫、菅直人)異例の船出となる。社民党も前村山首相、土井たか子の事実上二人党首制をとり、新進党は従来の選挙公約に変えて約束という言葉を持ち出し自民、民主との違いを強調し選挙に臨む。その一方で、自民党の宇野元首相、二階堂元副総理、後藤田元副総理、河本元河本派会長、田村元衆院議長、藤尾元政調会長ら12人、旧社会党から田辺元委員長、大出元郵政相、野坂元官房長官ら16人、国会の爆弾男で有名な楢崎弥之助議員ら実力政治家が去る新旧交代ドラマとなった。結果は自民28議席増239、新進党4議席減156、初陣の民主党に新党ブーム熾きず52の現状維持、社民党は旧社会党時代からの過去最低15、新党さきがけ2(武村正義、園田博之)だ。新制度による初当選は、自民党の菅義偉、下村博文、新藤義孝、田村憲久、渡辺喜美、河野太郎、平沢勝栄など、野党側は安住淳、一川保夫、古川元久など多士済々だ。次の流れは、自民党による他党や無所属議員への切り崩し(高市早苗、船田元、石破茂各氏)や社民、さきがけの閣外協力を確認して首相指名選挙に備える。11月7日第138回特別国会では、橋本龍太郎262、小沢一郎152、菅直人52票、第二次橋本内閣「行財政改革」のスタートだ。 新進党内では小沢党首による過半数確保が遠く及ばなかったこと、三首相経験者(細川、羽田、海部)による最高顧問会議における責任問題、分党論(細川)などが噴出、年の暮れに羽田孜党首の下に太陽党(衆参十三人)を結成、新進党は結党二年で分裂、半年後に細川離党など次々と離党者が続き、小沢党首と旧公明グループの不協和音も高まる。こうしたタイミングで三回目の新進党党首選(2月18日)で非自民の結集を掲げる鹿野道彦が羽田氏らの支援で名乗りを上げ小沢党首に対抗、小沢230票、鹿野182票となり、その直後27日両院議員総会で新進党解党が宣言される。小沢一郎氏は自由党を結成(衆院42、参院12人の野党第二党をスタートさせ、その一方で「国民の声」(鹿野道彦ら)、「フロムファイム」(旧日本新党系)、「太陽党」が合体して「民政党」(羽田党首、衆院30、参院9人)を形成、更に四党の党首会談で新・新党結成を合意、4月27日「民主党」(衆参合わせて131人)が発足、政権交代可能な二大政党制を目指す再チャレンジが始まった。こうした混乱の中、私には忘れることができない海外での出来事、南米ペリーの首都リマで日本大使公邸人質事件が発生、解決まで127日間を要した大事件が発生している。まさに日本政界は内に外に大きく揺らいでいたのである。ずっと後になって私は当時の駐ペルー大使の青木盛久氏と、青年海外協力隊を育てる会で親交を得ることになり、当時の国内外の政治経済、価値観の違い、難しい外交の行方など現場と理想の立ち位置の有様のディスカッションを思い出した。 第二次橋本内閣は六つの改革を掲げた。行政改革、経済構造、金融システム、財政構造、社会保障制度、教育改革を政権公約とした。第一の目玉は中央省庁の再編だ。1府21省庁体制から1府12省庁へ再編するものだ。その狙いである縦割り行政の悪弊を廃する目的も、霞が関各省庁の縄張り争い、看板(省名)へのこだわりは尋常ではなく難航し、結局、省名がそのまま残ったのは外務省のみだ。私たち地方関係者も地方の戸惑いは半端ではないと慎重な対応を要請する。私は自民党青年局時代に首相との面識もあり、首相の姻戚関係にある井上信幸別府市長と共に直訴したこともある。こうして98年6月中央省庁再編基本法が成立、次の森喜朗政権下の2001年1月実施、案の定双方に戸惑いが多々発生した。次に財政構造改革と景気対策、金融危機対応も相関連して進行する。一方では「行革・財政再建より経済」、山一證券・北海道拓殖銀行などが倒れ「経済は生き物、行革はあとからでもやれるが経済は即決対応が必要」と政府批判、消費税三%から五%になる。社会保障制度改革は少子高齢化時代への本格的取り組み即ちサラリーマンの医療時負担1割から2割へ、入院費引き上げ(健康保険法改正)など、私は国保中央会理事・徳島県国保団体連合会理事長として齋藤十郎参院議長・国保中央会会長と共に橋本首相に要請活動を繰り返す。第一次オイルショック以来23年ぶりのマイナス成長、平均株価1万5千円割れなど、物価下落と生産活動縮小のデフレ様相が進む。1998年7月参院選は非改選併せて百二議席(過半数に24議席不足)、特に都市部では自民党全滅、最大の敗因はサイレント・マジョリティー(無党派層)と、橋本首相退陣表明に至る。姻戚の井上信之元別府市長は「よくやった」と慰労する。 (徳島文理大学総合政策学研究科元教授 西川 政善) |