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中央テレビ編集 


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自治随想
2025年:「昭和100年」、「戦後・国連80年」 &向後の国際協調・各国及び自治体像は…
その3、混乱の中、新生日本のスタート
 日華事変の勃発から太平洋戦争の終結まで15年間何も知らされない国民サイドの私の実家では、実父(陸軍)・義父(海軍)の体験談、歴史書を紐解くしか術はないが、旧日本から新日本への過渡的性格内閣ゆえに国体護持と一億総懴悔を掲げる東久邇内閣は、建国以来初の敗戦ショックの虚脱状態だっただろうが、国民の秀でた現実的な対応力もあって焦土抗戦から軍の解体へという大手術を受けようとする動きもあったようだ。厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは皇居の堀を挟んだ第一生命ビル屋上に星条旗を掲げ、ミズーリ艦上での日本降伏文書調印、戦犯逮捕に手を付け矢継ぎ早に古い日本の体制を根底から変えていく。  
 10月には戦争中猛威を振るった治安維持法と特高警察廃止、思想犯の釈放、英米協調派の元外相幣原喜重郎が組閣し、再出発する。  
 天皇の人間宣言:天皇制は戦争遂行の精神的な支柱とみなされ、ソ連や英国は天皇退位・裁判にかけると主張、片や、天皇の絶大な影響力を日本の統治に利用するのが得策、「一人の天皇は百万の軍隊に勝る」とした占領軍の事実上の主体である米国が主張する。全く異例的に9月27日天皇は皇居を出て米大使館にマッカーサー訪問、軍服姿の元帥と横に立つモーニング姿の天皇、戦争に敗れ無条件降伏した日本の姿が大きな衝撃を国民に与えたのだ。21年元旦、天皇はこれまでの神聖な権威をかなぐりすて「人間宣言」を行い自ら「現人神」であることを否定する「国民統合の象徴」となることが最も現実的な解決法と理解されたのだ。  
 主権在民と戦争放棄を骨子とする日本国憲法制定への動きは、天皇のマッカーサー元帥訪問数日後に東久邇内閣国務相近衛文麿に憲法改正の示唆を受け憲法学者佐々木惣一等を中心とした最初の改正大綱を天皇に奉呈するも、明治憲法の部分的改正に過ぎないとしてGHQが認めず、数日後近藤文麿が2回目の戦犯に指定され毒薬自殺する。こうした経過を経つつ一方で、財閥解体・農地改革・婦人参政権・労使関係の民主化のための労働組合法制定などがGHQの指導のもとに改正作業が進み、極端な国家主義や軍国主義の基盤を根底から崩す改革、就中、最も進んだのが農地改革となっていく。こうして戦前の価値体系が180度引っくり返る一方、政治の分野に頭角を現すのが吉田茂、ワンマン時代へと進む。  
 昭和21年GHQは公職追放令を出し、軍国主義的とみられた官公吏や議員を大量に追放し、様々なスキャンダルもあったようだ。国民を最も苦しめたのは食糧不足とインフレだ。敗戦直後の大都市の配給は1日1食茶碗一杯分、それも米より代用食の薩摩芋・大豆・豆かすなど、魚は4日に1度それも鰯1匹程度しかなく、人々はヤミ市に殺到、デモ・メーデー等インフレの高進は様々な事件に繋がり、「憲法よりメシだ」と住民生活は混迷を深める。  
 昭和21年4月には戦後第―回総選挙、わが国初の女性選挙権と被選挙権を行使し、結果、39人の婦人代議士(徳島選挙区紅露みつ氏)が赤いジュータンを踏む。鳩山自由党が第一党となり幣原内閣は新憲法草案発表して総辞職するも組閣直前に鳩山が追放され代わって第一次吉田茂内閣が登場する。昭和22年4月新憲法による最初の総選挙で社会党は第一党となったが、自由党や民主党を合わせると保守政党が圧倒的に多数を占める状況下で、社会党は片山哲を首班に、民主党の芦田均を副総理に連立内閣をつくる。期待されたインフレ阻止・労働攻勢が深刻化してうまくいかず1年足らずで総辞職、代わって民主党の芦田均が社会党と連立を続けながら中道政治を目指す。昭和23年帝銀・昭電事件発生後芦田内閣後に第二次吉田内閣、翌24年総選挙で吉田民自党圧勝、ワンマン政権(至5次)へ進む。鉄道三事件(下山・三鷹・松川)、秋には極東裁判判決で東条元首相らA級戦犯7人が絞首刑、16名が終身刑、明るいニュースは古橋広之進(水泳)世界記録、男女共学制度など僅かだ。そして昭和25年6月朝鮮動乱勃発、米ソ冷戦・新中国成立で日本進駐中の米軍が続々朝鮮半島に送られ、その真空状態を埋めるため旧軍人の追放を大量解除してつくられたのが警察予備隊、その予備隊が今日の自衛隊、陸海三軍に分かれ今日に至る。一方で、特需ブームが起き、日本の工場で作られた軍需品が続々と戦地に送られ日本の経済界は大儲けで息を吹き返す。中共義勇軍の介入となり一進一退を繰り返し、満鮮国境を越えての北伐を主張してマッカーサー元帥は「老兵は死なず、消え去るのみ」のセリフを残し日本を去った。  
 昭和26年9月、サンフランシスコ対日講和条約、日米安保条約調印。吉田首相は全面講和論の南原東大総長を「曲学阿世の徒」と決めつけ、単独講和で調印し日本はアジアの反共のトリデに性格づけられた。講和調印にかくされたかのような安保条約によって、日本は米軍の駐留を承認し、占領軍はそっくり駐留軍となった。米軍は内乱、騒擾にも出動するばかりか、日本を防衛する義務を負わない米国本位のもの、対して我が国は軍備の増強を義務付けられ、条約を廃止するには米国の認定を要する。この講和条約発効後の1952年(昭和27年)4月「血のメーデー」は全学連を中心に数千名が皇居前広場へ突入、デモ隊一名死亡、千余名の検挙者・多数の重傷者を出す。同年同月28日日本は独立を回復している。不完全な独立であったが吉田首相は現実政治家として「より少ない害悪(片務的で無期限な旧安保条約という代償)」を選んだと言える。1948年10月以来6年間首相あった吉田茂は11月28日職を辞し、12月10日鳩山一郎内閣が成立、翌年11月15日保守両党合同、自由民主党となる(私の母校中央大学駿河台講堂における党大会)。昭和31年(1956)日ソ国交の回復、ソ連との国交正常化により同年12月18日国際連合への加入が承認され吉田茂の思いも実現する。  
 かくして昭和31年(1931)自民党大会で石橋湛山総裁となったが、翌年2月23日病気のため石橋内閣辞職、2日後岸信介内閣が成立する。しかし岸総理が昭和16年(1941) 12月8日に米英両国との戦争を開始した東条内閣の閣僚であった事実は、民主化された日本を首相としてリードできるかどうか、国民側の深刻な議論と判断に繋がる。この頃、中・高-大学生であった私の世代は学校図書館の新聞・解説書・ラジオ・知識人などから見聞きし、子どもなりに心配し、また恩師や父・祖父から岸信介総理と共に国会や世界を巡って頑張っていた徳島出身の東京大学・高級官僚小笠公韶代議士の活躍ぶりを聞かされ、私自身も昭和36年から8年間母校中央大(法・政)・代議士秘書見習としての経験が蘇った。国会の会期延長と新安保条約とをアッという間に強行採決、この時国会周辺には常時1万人デモ隊が気勢を上げていた。そんな混乱の中で東大生の樺美智子さんが死亡するという事件が起こり、そんな時期私は神田駿河台の中央大(法)で樺美智子さんの尊父(かんば)教授の講義を受けていた。なんという奇縁、驚きと心にしみる縁に涙を流した経験を持つ。

(徳島文理大学総合政策学研究科元教授 西川 政善)