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自治随想
江戸を百万都市へ、家康(構想)―天海(設計)―高虎(施工)ラインで繋ぐ |
| 百万人都市江戸への第一歩 湿地だらけの荒れ地江戸城周辺に百万人大都市構想を徳川家康が構想(1590年)するに当たり頼りにしたのがそのブレーン南光坊天海だった。すでに家康の信頼を得て参謀として仕え江戸の町づくりをも担うことになっていた。関ケ原の戦いに勝利した家康が1603年に幕府を開くにあたって、関東の地相を天台密教の陰陽道の知識と西の伊豆から東の下総(千葉)に至る広大な土地の地層を調べ、結果的に江戸の位置こそが幕府の本拠地にふさわしい所と決める。この判断の基準は古代中国の陰陽五行説に基づく考えで、風水における大吉の地相を指すものだ。つまり東に青龍の宿る川が流れ、西に白虎の宿る道、南に朱雀の宿る水、北に玄武の宿る山がある土地は栄えるとされ、こうした考えから中国の長安はこれに基づいて選定され、日本の平安京(京都)しかり。陰陽道を納めた天界も家康の考えと同様に江戸も「四神相応」に叶っており幕府の本拠地として相応しいとする。江戸は東に平川(ひらかわ)、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があると解釈、実際のところ富士山は真北からかなりずれているが当時の江戸人たちもこれを北と見立てて半ば強引に理解したのかも知れない。江戸城のつくりを見ても大手門の向きなどもそれに合わせてずれた向きになっておるようで、意図的に富士山を北に見立てた手法だと思われ、江戸は「四神」によって守られた土地と考えたようだ。同じ様に地形から見ると江戸城本丸が置かれた本丸台地は江戸の中では特に地相がよく、上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の七つの台地に囲まれ各台地それぞれの突端の延長線が本丸台地で交わり、陰陽道ではこうした地形の中心には周りの地の気が集まり文明が栄えるらしいのだ。次に進められた掘割にもある種秘密が潜む。堀は通常城を円で囲むように掘るが、江戸城の場合は螺旋状の「の」字型に進められ、城内部も渦郭式(かかくしき)という「の」の字型に掘り進め城を中心に時計回りで町が拡大され、江戸の人口増加は堀の開削と比例するかのように外縁が広がり成長している。この「の」字型の町割りの利点は更に、①敵が容易に城に近づけず、攻められにくい、②火災の類焼を防げる、③物資を船で内陸まで運搬できる、④開削でできた土砂を海岸の埋め立に利用できる等と、平城京(奈良)や平安京(京都)の条坊制を採らず、江戸の螺旋状に発展する機能に富んだ町づくりを行ったといえそうだ。家康の発想のもとに築城の名手藤堂高虎、思想・宗教的な影の設計者天海のノウハウによって寛永17(1640)年、家光時代の江戸城完成時には天海のみ存命であって50年近い江戸の都市計画初期から完成まで深く関わったというのである。 江戸の根幹部分を定めた後にもう一つ、周辺の要所に平安京に倣って「鬼門封じ」、陰陽道では北東は鬼門という邪気が入ってくる忌まわしい方角に当たり、その正反対に当たる南西は邪気の通り道「裏鬼門」の鬼門封じとして北東のライン上にある比叡山に延暦寺などの寺社を設け、現在の御所の塀で初めて確認したが北東隅だけは「猿が辻」という鬼門封じが設けられ平安京の護りとなっていると教わ知った。天海はこうした鬼門に対しての考え方を江戸に持ち込み住職を務めた上野の寛永寺(寺号を東叡山、東の比叡山の意)は平安京に倣って江戸の鬼門鎮護を担い堂塔伽藍も延暦寺に倣い、近江の琵琶湖に見立てて不忍池、琵琶湖の竹生島と同じく中之島に弁財天を祀るというように延暦寺を模している。そして1627年(寛永4)には寛永寺の隣に家康を祀った上野東照宮を建立、江戸の護りとする。 江戸の三大祭り 神田神社の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は私にとっても言わば青春の情熱の炎そのものであり現実社会での夢のよう、八年余の貴重な在京体験などその後歩み続けた政治と自治の人生往来であったような気がしてならない。先の東京オリンピック(1939年)時に東京ど真ん中神田駿河台の中央大(法)に通学した一学生の私は、徳川家の菩提寺となった寛永寺と増上寺、それに神田神社を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線が交わる地点に、江戸城を天海が鬼門・裏鬼門封じの仕込みと位置付けたと理解できた。更に古きに学ぶと平安時代に関東一円を席巻し、新皇と称された平将門(たいらのまさかど)公の大きな力を用いて、940年に反逆者として京都の七条河原でさらし首となり、その首が今の東京都千代田区大手町1丁目の「首塚」に落ちて後世に津波や洪水の防災伝説を伝えている。近隣の「からだ」に由来する神田神社には、将門公の胴体を祀りここから江戸の町を守護する仕組みが、江戸の各所に存在する神社や塚のうち主要街道と「の」の字型の堀の交差点に鎮座しているように祀っている。首塚は奥州道へ繋がる大手門、胴を祀る神田神社は上州道の神田橋門、手を祀る鳥越神社は奥州道の浅草橋門、足を祀る津久戸八幡神社は中山道の牛込門、鎧を祀る兜神社は甲州道の四谷門、兜を祀る兜神社には東海道の虎ノ門に置かれた。これら主要街道と堀の交点には橋がかけられ、城門と見張り所が設置されて「見附」という要所になり、その出入り口に将門公の地霊を祀ることで江戸の町に街道から邪気が入り込むのを防ぐように天界は願ったのだとする。天海が仕掛けた発展の願い跡を私は、箱根駅伝中央大白門6連覇達成中の時代に大手町スタート、ゴールインを正月早々応援に毎年通いつめ、様々に周辺散策し大都市江戸、理想都市東京へ発想を広げ、かつ海に、空に、地下にひと味違った展望を描きながら名所・旧跡を散策し大いに学ばせてもらった。昭和39年10月10日開会の東京OP千駄ヶ谷陸上競技場ではボランティア要員として会場内案内サポートを兼ねた役目に邁進し、各種名レースを垣間見ながら連日充実した体験を万喫させてもらった。余談だがスタート時の前後のセレモニー、東京農業大「大根踊りヤットコラサー」に感動した。歌の文句と言い、調子、所作、両手に手に余るほど大きく育てた大根2本、しっかりと淑やかに上下斜めに振りかざしながら、2~30人ほどが声高く規律正しく舞い踊りまくる。集まった俄か応援隊面々を含めて〆(占め)にもう一度、誰言うとなく故郷の名物踊りを披露する者あり、もちろん私は阿波踊り、拍手とご褒美に大振り大根5本ほどいただく。仲間3人とうまい大根飯1週間程たて続けに食った思い出が懐かしく蘇る。最近は家族一同テレビで箱根駅伝を楽しみながら、若かりし青春の思い出と、血沸き肉躍る学生生活の一コマ一コマ噛み締めるように思い出し、友人や子や孫、女房にも「えっへん!」
(徳島文理大学総合政策学研究科元教授 西川 政善) |