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中央テレビ編集 


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自治随想
京都から近代日本の殖産興業と人づくりを目指す
 明治3年(1868)山本覚馬は舎密局設立、オランダ語で化学を意味する言葉を訳し欧州の工業力の基礎である理化学を研究・実践する学校だ。手始めにレモネードとビールが製造され、その後石鹸・氷糖・陶磁器・七宝・ガラス等の製造や石板術・写真術の実験、化学染料・染色技術研修、フランスからの洋式最新織機技術を導入した京都西陣の織物産業を再興する。また伏見に鉄工所・伏見製作所を開設し、四条大橋や観月橋の鉄材を供給する。製革場・養蚕場・牧畜場・靴工場・栽培試験場・製紙場など次々設立されていく。同時に、「我が国を諸外国に並び立つ文明国にするためにはまず人材を教育すべきだ」として、日本最初の小学校・中学校が中央政府の学区制発布の3年前(明治2年)に小学校64校も開校、翌年京都府中学が誕生、その後、独逸学校・英学校・仏学校と続く。女性教育では明治5年「新英学校及女紅場」設立、華士族の子女に英語や礼法・茶道・華道・裁縫・機織りなど手芸を教育する施設として開設され、ここに覚馬の妹八重も助教や舎監として勤めたようだ。更に病院、医学校も設立されていく。東京遷都が行われてある意味では見捨てられたとも言える京都の反中央意識とがうまくマッチし、反骨の気風に富む独自なプランに結びついていったと言えそうだ。一方で明治維新後、それまでの藩のあり方が解体されていくに伴い社会を支えていた儒教道徳体系がそのままの形では通用しなくなり道徳的混乱が各所で起こり、会津の敗亡・わが身の障害・世の道徳の混迷という状況の中で揺れ動いた覚馬は、明治8年(1875)にアメリカ伝道教会ゴートン宣教医からキリスト教の教理を説いた「天道遡原」を贈られ覚馬の胸中の疑問がこの本ですっかり氷解した。始めは武芸を持って、次には法律をもって国家のために尽くそうとしたが願いは叶えられなかった。この本を読んで人間の心を改善するためにはこの宗教によるべきだと分かったと語り、この頃出会った新島襄と意気投合し、襄を支えて自ら結社人(理事長)となって同志社の教育を推進していく。「まず人材をつくるのが第一」と考えた覚馬は、幽囚された薩摩藩邸でも同室者を集めて教え、京都府顧問になった後も自宅に若い優秀な青年たちを集めて講座を開き続け、その中から後に大実業家となる教え子たちが覚馬の教えを胸に、京都の産業振興に取り組んでいく。そうした象徴的な事業に琵琶湖疎水事業(明治18年着工28年完成)が挙げられる。琵琶湖の水(大津)を京都(伏見)まで引く疎水は舟運の道となり、水は灌漑用水として使われ、水流は水車や水力発電・日本初の路面電車や各種工業発展に活用される。日本の針路がはっきり見えていない混乱期に産業振興と教育確立という日本が力を入れるべき2つの道筋を明確に示し具体化し実践したのだ。

(徳島文理大学総合政策学研究科元教授 西川 政善)