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中央テレビ編集 


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自治随想
日本の政治体制の歴史と地方分権のこれから
~中央集権、地方分権を再考する~
はじめに  
 私たち世代の学生時代では「古代の昔から日本は統一国家」という歴史教育 を学び、「一つの民族、一つの言語、そして一つの国家」を形成してきたと教わ る。「人間は社会的(政治的)生きものである」とも言われる一方、「単体では 生き残れず集団社会を形成し助け合って生き残る知恵を持つ」とされ、万世一 系の天皇を戴く日本の政治(中央集権)体制が国柄となり、時代と共に諸課題 に対峙しながら歴史を刻んできたとも指摘される。では、本当に日本は古くか ら都を核としてまとまる中央集権の国であったのかどうか、再考する必要も覚 える

貨幣経済の浸透 
 貨幣経済とは、人々がその貨幣の価値に信用を置き、その信用に基づいて貨 幣が商品やサービスの交換を媒介することで成り立つ。集団・共同生活をする 人々にとってはなくてはならない貨幣経済制度、その核となる統一貨幣の流通 は国が成立する上で極めて大事な要素であり、日本列島の隅々まで流通してい なければならない。日本最古の貨幣(和銅開ほう 708年)は全国隅々まで行渡 っていない。これを現在に置き換えて考えれば、我々が日本政府に信用を置き 実際には30円ほどの費用で作成される紙の券に一万円の価値を認めるからこそ、 全国どこででも一万円札は物品やサーピスの対価として等しい機能を果たすの だ。日本列島に貨幣経済が浸透したのは鎌倉時代、日宋貿易によってもたらさ れた膨大な量の「銅銭」以降(1226~50年)からとされている。  また古代の日本での地方行政の単位として「国」が置かれていたが、その国 を司る行政官として国司が任命され、国司には上位から守・介・援・目という 四段階の官があり、武蔵国の守に任命されると「武蔵の守」、今日言う県知事と なる。しかし守に任命された人は自身の任国に直に赴いて生活するのでなく、 現地に部下を派遣し自らはあくまで中級の貴族として京都に暮らし、地方を司 る立場に任命されても京都から直接行政の指揮を執るのではなく実質的には現 地に丸投げし、地域から受納しやすい税を吸い上げる程度の関わりしか持たな い。だからこそ国の政策や意向が現地に浸透せず当然のことながらその地方で の論理が優先的に働いていく。地方行政の形骸化は朝廷からの統一的なコント ロールが届かないことを意味し、自分の士地は自分で守らなければならないと いう自力救済を必須とする状況、即ち地域の有力者たちによる武装、他者の侵 略を防ぐという地方の論理が優先し、ここにこそ武士の誕生へと繋がる必然性 があった。
 また、日本は流通が盛んであった西国から開け、武士の誕生を望む傾向に背中 を押され発展を遂げたのが平家である。東国の源氏は農業生産を基盤とし収穫 も拙劣な段階であり、流通という仝く異質の活動に依拠する平家に差を付けら れる。特に平家が重視した日宋貿易では、博多や福原(神戸)などを中心に宋 との交易を通じ日本国内の流通に多大の影響をもたらしたのが膨大な貨幣の流 入だ。取引の範囲がどうしても限られてしまう物々交換から貨幣による取引に 移り代わっていくことは、日本各地での物流が拡大し互いに緊密な連関を持ち 始めることを意味し、地域ごとの完結あるいは断絶していた時代を経て列島が 一つの有機的なつながりを持つ大きな要因として、銭の流入を上げなければな らない。こうして遠くの地域との交易が進められる中で、特に京都と蝦夷、京 都と博多を結ぶ日本海交易が盛んになる。各地で製造された焼き物や北海道の 海産物が特産品として都に運ばれ、更に広い地域で売買されるようになる。ま たこの時代には、日本海交易に次ぐ瀬戸内海交易も盛んとなり、博多から瀬戸 内海を通って域内へと抜ける経済の主要なルートとなる。一方、太平洋側の交 易は後れを取る。

武士と地方  
 日本の歴史は見方によれば、天皇の歴史であり武士の成長の歴史でもある。 日本列島の各地で誕生し勢力を強めた武士たちは、その支配権をどう拡大した か。鎌倉時代は東国に幕府、西国に朝廷が位置する。朝廷に対して幕府の権力 が優勢になった契機は承久の乱(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権北条義 時に対して兵をあげて敗北、朝廷の権力が抑えられ、これを契機に関東の武士 たちが西国へ侵入しながら西国に分布する上皇の所領、上皇に味方した貴族た ちの所領を取り上げてその土地の権利を御家人たちに配分する。こうして関東 の武士たちは力を次第に持つようになるが、土地の増加をすぐさま支配権の拡 大に直結させるためには、戦功によって新たに獲得した西国の領地などは、鎌 倉幕府に所属する御家人たちにとって何よりも大事な本拠地は、自身の本領地 (鎌倉の屋敷地・京都の屋敷地・関東の領地など)から遠隔地に存在している。 そのために彼らは自身の所有地や領地を纏めて集中的に保持し管理することが 容易でなく、他者の侵略にも遭いやすい状態では広域かつ統一的な支配を視野 に入れられるほどの有力な武士勢力が出現するには至らない。とは言え一定の まとまりを持った有力な武士勢力が存在しだす。鎌倉幕府は各地方の国ごとに 行政官である守護を設置、その国の武士たちを主導する存在となる。守護はそ れぞれの管轄地域に対して決められた権限に従って役割を果たす「役人」であ り、室町時代になると役人の段階を超えて配属された国を一円地的に支配する 「守護大名」となる。更に15世紀後期ごろから守護大名の一部は戦国大名とな り、一国を軍事的にも経済的にも支配下におさめて税制も整備する一方、領内 における争いの調停等領民に対するサービスも行い権力主体としての総合的な 機能を備えていく。
 こうしてさまざまな地方で武家による権力機構が整えられ、日本列島に小さ な国がいくつも生じるようになったといえる。戦国大名が戦いを繰り返しなが ら、日本列島全体を網羅する統一権力が生まれてくる。それは織田信長や豊臣 秀吉によって主導され、かつ、日本全国を一つの国家とみなすことができるの は ようやく16世紀終わりのころと言えそうだ。

日本の対外対応と世界の戦乱 
 江戸時代:300諸侯、それぞれの藩、それぞれの地域で教育があり英オが育てられた。江戸の泰平。 黒船と明治維新:世襲にとらわれず、オ能を登用する。「立身出世」をよしとする各地の英オが東京に集まる。万世ー系の天皇を核とする、強力な中央集権が図られ、列強に対抗する。鎖国の幕藩体制が日本を近代化させる。米国南北戦争の影響(鉄砲など武器の搬入)で列強のパワーバランスが変化する。
 明治の達成を評価:明治維新後に日本経済が急速に近代化したのは、江戸時代に武士たちが独立採算制の藩経営を通じて経営手腕のノウハウを蓄積してきたところも伺えるが、300万人超の犠牲を出した太平洋戦争に直線的に結びつくとまでは言えない。過度な受験秀オの重用をどう捉えるかも問題であろう。

現代の黒船は何か? (人口減少、経済不安定と思われる)
 
今こそ明治の中央集権とは逆に、地方自治権を強く後押しするべきでないか。地方からのポトムアップこそが新しい日本を支えていく、と考えられる。ここに現代版の地方分権改革が求められる。

(徳島文理大学総合政策学研究科前教授 西川 政善)