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中央テレビ編集 


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自治随想
「中央VS地方」、総体&現場主義の錯覚・ズレ
~その7、国は、県は、市町村は、我々住民はどうする?~
個の復権を目指すまちづくり  
 細江茂光岐阜市長の平成14年就任間もない全国市長会での対話が記憶に残る。「人は古来、 自分個人だけでは実現できない目的を達成するため様々な組織を作り、それは最小の家族から国、 国連など国際組織に至る。それが何時しか、個々の人間の幸福を達成するための手段である組織が自己目的化し、時として組織存続そのものを重視した議論が行 われ、目指すべき目的や時系列的な段階により、 個人よりも組織のほうに力点を置くことが問題となる。 戦後復興を支えた中央集権システムは国民総生産世界第2位という奇跡が達成された。 ナショナルミニマムが達成された今、本来の目的である個の復権が図られなければならない、地方分権の掛け声の下で中央政府から様々な権限・税源を地方に移譲しようとする。ところが均衡ある国土の発展を目指した中央集権システムは画一化された価値観という副産物を残した。 日本がこれからの国際競争を勝ち抜いていくには知的財産立国として独創性と創造性に裏打ちされた知恵社会の確立が不可欠。 そのためには個人個人の個性を最大限に引き出すシステムが必要だ。 それぞれの地方の歴史、伝統、 市民性、 地理的条件などを背景に各地方独自の産業、 文化更に価値観が生まれなければならず、 分権化された権限の上に胡床(あぐら)をかいていたのでは何にもならない。そこで岐阜市では平成14年近隣市町に政令指定都市を目指した広域合併協議を進める。 これは国の制度設計に先んじて 「都市内分権」を目玉とする提唱で、地方分権を個の復権のための絶好の機会と位置付けたものである。

地方分権、個の復権から都市内分権へ
 この都市内分権は、国から都道府県や基礎自治体たる市町村へ、さらには基礎自治体から住民への分権による住民自治の確立を最終目的とし都市内における分権を目指す。 この都市内分権制度をとりあえず合併する市町単位で導入し、合併後の一体化が確保された時点で全市的にいわゆる区のような行政組織を設置していく。 この都市内分権という行政システムは自治会や各種まちづくり協議会など各種団体の活性化というソフトと一体として設計し、平成16年度から3校区の地域創生モデル事業としてスタートさせている。 自治会など各種団体からの積極的関与を実現し双方向の能動的関係を構築し本来の目的である住民一人ひとりの幸福を実現し個の光輝くまちを築きたいとする。 お仕着せのレディーメード民主主義から、 自分達の思いが溢れ身の丈に合ったオーダーメード民主主義を望むという。

スローライフによる人間復活、 個の復権
 岐阜市は掛川市・金沢市他20の市町と「スローライフまちづくり全国都市協議会」を結成、 スローライフ運動を展開中だ。 人間は何のために生きているのか?という究極の問に対し、 個人個人が一度きりの人生を活き活きと後悔なく暮らすために生活の質を高める問題意識 を以て、地産地消・滞在型観光・歩き・笑いによるまちおこしなど様々な切り口でスローライフ運動を展開し、 双方向の能動的な関係による都市内分権と相まって生活の質を追求でき、個を再発見し復権させることができるまちづくりを目指したいというのである。

市役所は市民に役立つ所、行政もサービス産業
 こう言い切るのは横尾俊彦佐賀県多久市長 (平成9年就任)、 私の市長勇退後青年市長会 OB として面談した時の言葉だ。続けて「その実行のために根本は意識改革、 創造・挑戦・透明化を忘れず、日々に新たな改革が欠かせないことである」 と。 多久市はISO9001(2000年版) 認証を九州初で取得し、民間に負けない努力をするとともに行政の意識も改革するというヤル気満々の時期であった。 「やればできる」 の気概を以て、広く国民・市民が国や地方の政治行政に関心を持ち市民の意識こそが変革のエネルギーとの認識を強くし、真に新しい日本の政治行政の創造の種を蒔き育てていくというのであった。 その為の第1に国の課題、国はより良い総合的行政のために行革議論を重ね総合行政計画を作成するが、これは縦割り行政だと評判がよくない。 しかし、地方・地域の現場から見れば総合的行政は当たり前、国・県・市の区別は別にして総合行政の上に、いかに素晴らしい行政サービスを提供できるかを国民、市民は求めている。生活は縦割りでなく、総合行政は当然なのだ。また国はいつまでも単年度消化型予算、 これでは国家の経営が困難に。 欧米先進国では複数年度にわたる予算や数年の施策でどのような公的サービスを実現するかを競いあっている。さらに補助金獲得のために奔走する地方、各省ごとの予算取り合戦に見える慣習や戦術合戦から、新しい国会審議の手法など工夫し本質的な国会審議による国家経営の確立・推進を期待したい。 形式や手続き重視でなく、 肝心の本質審議を行うべきである。 第2に県の課題について。 市町村は県を経由して国に対応する場合が多く、「市町村から見える国をつくる県の課題」すなわち「県民目線・県民主義」が求められる。 現場の目がいつも届く市町村と差があるように思われる。 また、 国の要綱やルールを守ろうとする中央志向が強く、 具体的に県行政からのチェック・指導監督されることもある。 さらに年度途中の補正予算・思い付き事業予算などの実施を求めてくる。 こうした思いつきや県民協働提案に対する市町村職員の戸惑いもあると思われる。 そこで第3に多久市長は「こうすれば、 変わる・変われる・変えられる」 ために着眼と実践を試みる。 その為に、ISO登録認証で経営改革、 民間経営手法を目指す。 そこには真のコスト意識を以て、日常の経費までも自分の財布から出す視点、「小事こそ大事」の改革、併せて人事評価改革、 労組との対話・改革、 議会改革・提案型の質問・討論、熱意を以て組織替え・仕組み変え、三つの行革 (行政改革・業務改革・行動改革)、公務員の意識改革、 そして人間改革、 ボーイズ・ビー・アンビシャスの気概を以て公務を正し、志を共に持ち、 行動したいとした。 締め括りの第4に、「現在進行形でまだ未完成、これから・・・」として、二度とない人生だから真剣に生きる、市民として、 市職員として、首長・三役・議会議員等特別職として、 それぞれの使命を真剣に見つめ、 実行するからこそ21世紀の日本に必要な自治体経営が各地で生まれ、互いに学び合い更に発展していけるとする。

現場の声を聴け、現場にこそ神宿る
 次に私とほぼ同じ世代と経歴で、 生まれ育ち愛する犬山市の市長を目指し、 代議士秘書・愛知県議 3期を経て念願を達成した石田芳弘犬山市長の3期目の頃、 全国市長会における真剣なやり取りが記憶に残る。 お互いに最優先すべきは「次世代の故郷を担う人材を育てることだ、 政治や行政は科学のように発明や発見で無から有を生み出すのではない。 学ぶべきことを現在に受け継ぎ、 さらに新しい創意と工夫を付け加え未来に贈るという仕事だ」、そして「その仕事を行うのはあくまでも、ひと。 その人々は基本的にはわがまちに住み、地域の人々と共に育つ」、つまり、 まちは最高の生涯学習の教室となる。 生涯を通じて学び、成長し続ける楽しみを知る基礎を身に着けるのが小・中学校であり、 その管理責任者はそのまちの市町村長だ。 それ故に子供の教育に関しては中央の考える政策より、 地方の方がはるかに切実さと深い思い入れがある。 もちろん文部科学省も教育改革に真剣に取り組み、受験勉強や知識の詰め込み教育批判に対して 「ゆとり教育」を打ち出す。 ゆとり教育は学力低下につながるとの批判も多く出る。 ゆとり・学力というものは政治・行政がマニュアル化できるものではない。 各自の内発的・自律的なものであって数値化、客観化されにくい価値観であるといった議論が湧く。 そこで市長は「少人数授業」に関心を持ち早速現場視察、 その現場では「ゆとり」や「学力」も教師と生徒との関係を構成する教室という空間をどういう質に作り上げていくかということこそ肝要だと痛感する。 例えば大学の講義で大教室での意義もあるが、 本当に学問の楽しさがわかるのはゼミである、 選挙おいても大集会も必要だが政策や人となりを有権者に伝えるにはミニ集会、候補者の息遣いや内面の想いは小規模集会が優れている。 学校を成立させる核心は 「授業」、 事業こそ公教育における商品なのだと悟る。 その為には、教科書もカリキュラム・通知表もあらゆる事業を構成するものの決定を教員に任せを原則とし、 自信を以て地方発の教育行政を進めていると胸を張る。 少なくとも教育行政においては市町村の教室に神が宿り、すべての行動原理がそこから生まれるというのだ。 さらに幼児教育に関心を広げ、 少子化問題が深刻化しているわが国では少子化に反比例するかのように保育園への行政サービスが増大し厚生労働省の子育て支援は手厚くなる一方だ。 現場の声に耳を傾けると、 保育園サイドの本音は 「若い母親の子育てが心配」というところにありそうだ。 いかに子育ては苦労が多いといえどもこれ程までに行政任せにするのはどうか、もう一度中央と地方の現場との明らかな乖離を子育て世代と共に考え直すべきでないか、延いてはこの国の再生は、地方という現場の声によってしかできないという強い想いを持つと石田市長は言う。

国に届かない現場の声
 全国市長会元会長森 民夫新潟県元長岡市長は、 救急救命士法改正の顛末(てんまつ)を巡る厚生労働省と現場の葛藤を語っている。 その本質は「現場の論理と机上の論理との乖離」 と言える。心肺停止で一刻を争う人が救急車に乗せられ、 救急救命士が気管挿管をすれば助かる可能性があれば挿管できる(現場)と、 百人全員に対して実効性が担保できないのであれば意味がない(厚生労働省)との危機管理意識を巡る相克である。 検討会を設置して議論が続き、厳しく納得しがたい条件も付くが、 長岡市は厳しい条件を克服し救急救命士による気管挿管を実現する固い決意で進めている。(PHP 研究所編 「国の常識は地方の非常識」 参照)

(徳島文理大学総合政策学研究科教授 西川 政善)