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中央テレビ編集 


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自治随想
「中央VS地方」、総体&現場主義の錯覚・ズレ
~その3、現場から、新しい日本へのパラダイム転換~
1、真の構造改革は地方分権改革から  
 元全国知事会会長梶原 拓岐阜県知事は機会あるごとに力説していた。 「現在の日本は 様々な分野で閉塞状況に陥り、もたれあいの自己責任意識の希薄な社会システムの中で、 国民は自己実現による幸せを実感できないでいる。 自らの意思を、 自ら決定し、自ら実現できてこそ充足感を感じることができる。 だから、我が国の現在の構造的な不具合を解決する鍵は地方自治にある。 地方分権を進め、 真の地方自治を確立しなければならない。 そうすることで地域住民の身近なところでその意思に沿って政策決定、 税金の使途決定ができるようにする。真の構造改革は地方分権改革なのである。 しかし地方分に対する姿勢は、国と地方で大きく異なり、三位一体改革という同床異夢の端的な錯覚とズレが現れた」と言うのである。

三位一体改革とは
 国のいう三位一体の改革は、 国の目先の財政再建が優先され、 地方分権の視点を欠く。単に国の借金のつけを地方に回しているだけなのに、 財務省は国と地方がスリム化することが三位一体の改革だと言ってはばからない。 これでは国の財政再建計画であって地方財政再建ではない。国と地方の財政を一体のものとして捉え、あたかも自分のふところであるかのように地方財政をコントロールしようとしている。これは憲法で保障された地方自治の本旨(住民自治、団体自治)に反するものだ。 確かに行政の効率化、低コスト化は必要だ。同時に改革の目的は地方を諸拘束から解放し、その上で自己責任体制のもとに国全体の低コスト化を図ることにある。 即ち、地方分権の実現こそが現在の日本を高コスト・不満足社会から、低コスト・満足社会に転換させるための鍵となる改革であり、 その意味で国と地方の究極の財政再建策なのだ。国と地方の三位一体改革に対する姿勢の差はまさに同床異夢であり、国と地方の常識があっていない。 このままでは地方分権の推進・地方の自由度を高めるという地方の主張が力を失うと、 改革の結果は単なる地方の切り捨てになってしまう。 2003 年末の三位一体改革の決着 (地方交付税が突如、大幅削減) に対し、 地方自治体は一斉に反発した。九段の武道館に全国から8千人を超えて結集、 地方一揆の狼煙を上げた。しかしこの問題の根本には、国が作成する 「地方財政計画」にあることを忘れてはならない。毎年、新年度の地方財政の枠組みは地方抜きで総務・財務両省の折衝により決められている。 国は地方交付税の規模を決めるために必要という根拠で、国が地方の歳入の見積もりを行い、歳出の適正規模を判断するのである。 財務省は、 地方財政の伸びは国の一般歳出と同様の水準にあるべしと、さらに地方財政を圧縮しようとする。 これでは、まるでシーリングにより各省庁の予算を削減するのと同じやり方だ。 そもそも地方交付税は地方固有の財源であり、 国のみで地方の行政需要を勝手に決めてよいものではない。 しかし、 実態はというと、個々の地方自治体の予算編成はそれぞれの団体が行ってはいるものの、実質的に国が決める地方財政の枠組みに大きく制約されている。
 そこで先ずは、地方財政の枠組みを決める過程に地方自治体が参画できるように策定プ ロセスを改めることが必要だ。 そこでは、 机上の理屈だけではなく、 実際の現場での地方自治体の行政需要を把握し、 その積み上げを踏まえて歳出規模を見積り、地方交付税の規模を決めるべきである。 国サイドから地方自治体の過大見積もりを心配する指摘を聞き、現在の地方自治体は国よりも徹底して経費削減努力を重ね、 情報公開のもと無駄遣いに対する厳しい住民監視に適切に対応していると反論したことを思い出す。

地方自治確立と憲法論議
 梶原元全国知事会会長は、「今の憲法の地方自治規定は、抽象的で肝心なところは国のつ くる法律にゆだねられ、われわれが理想とする地方自治の姿を現実のものとできない根本原因がある」 として、平成13年4月に国の事務を限定列挙する憲法改正試案を公表した。 地方自治体が憲法の改正を提案するのは画期的なことだが、 自らの有り様について自らが 考え、その姿を提起するのは当たり前のこととした。 また高山市での全国知事会議 「闘う知事会議」でも「日本地方自治憲章」を地方自治体自らの手で制定することを提唱し、 地方自治の国際標準である 「近接と補完の原理」 を基本に、 現場を知るわれわれ地方自治体の手で地方自治のあるべき姿を描きたいとした。 そして1928年第1回普通選挙時の立憲政友会の選挙ポスターで地方分権の実現が公約として掲げられたことを引用し、 当時から地方分権は官の側でなく民の側の発想であり、地方分権はより住民の生活の現場に近いところに政策決定権を取り戻す民主主義改革である。「地方に自由を、市民に権利を」をスローガンに、平成の自由民権運動を展開し、地方からの改革が国を変える、国民に幸せをもたらす改革は 地方から始まる、と締めくくった。

現場から国の常識を変える
 母校中央大(法)同窓の桝本頼兼元京都市長や東大法・自治省出身の飯泉嘉門徳島県知事の繋がりから、山田啓二京都府知事の言動に幾度となく影響を受けたことが記憶に鮮明だ。 私は平成17年市長退任だが、 その3年前に山田京都府知事就任、 何度か全国知事会、 市長会の諸行事で行動を共にした。 京都大好き人間の妻とも何度も京都訪問、そこかしこ訪問地で府政、市政事業の現場を拝見させてもらう。「現場から国の常識を変える」という府知事の所見に触れ、私は 「法律をもとに地方団体を規制する」という国の常識から、「地方団体の素早い動きを国の施策に入れる」ことに変えるという地方の常識に変えることが大切だと解釈した。 国の対応を待つのではなくより現場に近い地方公共団体が、 地域の課題に対して素早く対応し独自施策を実施すること、これによって国の常識を変える。 現場を預かる府県と国の意識の差、国の動きの鈍さを指しているのだ。 右肩上がりの経済が終焉し、全国一律のモデルが存在したキャッチアップの時代が通用しなくなった現在、こうした国と地方との意識のズレが生じかつ顕著になり、現場をストレートに感じるか、遠く霞が関で思考を巡らせるかでは自ずと動きの早さや対応に差が出るのは当たり前、これは都道府県と市町村関係でも同じことで、問題や課題は現地、 現場にある。 そこで京都府では、 府政の推進方策として府民発、府民参画、府民協働と位置づけ、従来の国が作った施策を都道府県経由で市町村そして住民へという流れを、住民から発想した施策を市町村を経て都道府県、そして国へという流れに変えるとし、京都府は地方振興局に大幅な権限を委譲し現場感覚を徹底させることにする。 現場感覚を徹底するために、地方の常識を国の常識にするためにも、地方が率先すべきだ。 地方分権の推進は単なる役割分担論ではない、意識の流れを変えることこそ真の地方分権の推進であると強調する。

地方分権は逆転の発想から
 堂本暁子元千葉県知事は、マスコミ・参議院議員を経て平成13年千葉県知事就任、千葉競輪事業の責任者であった堂本知事と私は、 競輪事業振興のための全国競輪場間場外車券販売システム実現のために機会を得てあれこれ対談、「ふるさとダービー小松島」のマスコット「スタートラインに立つ9匹のタヌキ競輪選手」を贈ったところ、「可愛いから知事室に飾っておくわ」とうれしい返事を思い出す。 その知事は就任当初から千葉県が東京に近いこともあって、建築廃材など不法に捨てられる産業廃棄物が後を絶たない。 条例をつくり警戒のパトロールを強化しても、条例のウラをかいてごみを捨てる。 環境省は「建設リサイクル法ができれば対応できる」というが、法が施工されてわずか1年余で県内には廃材チップの山が 11か所、減るどころか新しいごみが増えている。 法をつくる人たちには地方の実態が読み取れず、地方の悲鳴が聞こえないのか。 法律の改正は一県のみの働きかけでは容易に実現しないので関東地方知事会で提案し様々な機会をとらえて国に働きかけ、平成16年、千葉県をモデルにした解体木くずの検討会議が設置され、 廃材チップのリサイクルが適正に行われる制度改革が進みだした。 このように千葉県には不法に捨てられる建築廃材を主とした産廃が後を絶たない。
 更にまた、産廃問題に留まらず住民に身近な福祉関係も深刻だ。 厚労省からほとんど命令に近い指示が来るが、霞が関には地域住民が必要とするものが見えにくいように感じる。 地方分権を確かなものにするためには、県や市町村は国に対して積極的に意見を述べ国から地方への流れを、地方から国の流れへと逆転させるべきだ。 高齢者も障害者も救貧的な福祉から脱却し、 利用者として選択の自由を持ち自分らしく生きることができるシステムづくりに参画すべきであり、そうすることで地方自治の確立、延いては地方の活性化、即ち、地方からの挑戦、新しい世紀の価値の創造に繋がるというのであった。 まさにパラダイム枠組みの転換期、チェンジ・チャンス・チャレンジの時代に立つ。そう言えば私事になるがかつて迷える時に、亡き両親が、「明けない夜はない」「変化の中にチャンスあり、チャレンジ精神を忘れるな」など尻を叩いて励ましてくれたことを再び思い出す。

(徳島文理大学総合政策学研究科教授 西川 政善)