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中央テレビ編集 


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自治随想
海部俊樹第76代総埋の教え
~政治の現場と理念の相克を繋ぐ辞達(弁論・討論)イズム~
  令和4年1月9日、昭和生まれ初の海部首相逝く。報道による訃報は5日後に聞いたが、その前々日、埼玉県在住の中央大先輩から数十年振りの思いもかけない電話あり、海部先輩の話やら1時間余って話し込む。思いがけず海部先輩を中心にした半世紀前の母校での思い出話に花が咲く。「若しかして永久の別れに来てくれたのかな」と合掌・ご冥福を祈る。私とは一回り違う海部先輩が、郷里愛知県東海高校から全国高等学校弁論大会優勝者の栄を引っさげて、中央大法学部および辞達学会(弁論部)に入学。「辞達」とは何か。海部先輩の12年後に入学し叩き込まれた発声練習原稿(二)によると、「中央大学辞達学会は、明治34年に創設された練弁会を改称し、明治・大正・昭和の三代に亘って法廷弁論の雄と謳われた故花井卓蔵博士によって命名された弁論の研究団体であります。花井博士は、雄弁は術に非ずして人格の発露である。故に雄弁道を歩まんとする者は、この道を通して人格の養成を為さなければならないとし、時に、論語衛霊公第十五、辞達而巳矣(ジハタッスルノミ)の語を引用され、本会の目指すものは言語の美辞麗句を排し、真理と正義に対する自己の所信を明らかにすることにより、衆人を共鳴せしめるが如き人格の養成に在ることを明示されたのであります。(中略)言語の真精より発し、言葉の昂揚に於いて、その頂点に達し、最後に魂の叫びに終わる。これが真の雄弁であります」とある。  
 発声練習原稿(一)には「そもそも雄弁の偉大なることは、古き歴史をたずぬればギリシャに於ける、デモステネスの如きを追想することが出来るのであります。当時、民主国家としてのギリシャを完成せしめたるものは、実に、言論の自由を基盤とする彼らの雄弁術に俟つものが多かったのであります。ローマ時代における一世の英傑シーザーを暗殺したるブルータスが、ローマの街頭に立って大衆に訴えたる時、彼の大雄弁に魅せられたる聴衆はしばし歓呼の声を挙げて、ブルータスのシーザーを暗殺したる合法性を肯定したのであります。その瞬間、立ち上がったアントニーがシーザーの偉業を称えつつ、ブルータスの暗殺を糾弾したるとき、彼の至誠あふるる希世の大雄弁は、たちまちにしてローマ市民の考えを一変し、遂に、ブルータスを倒すの挙に出でしめたのであります。雄弁は、至誠の奔騰する時に、燦然としてその光を放つものであります。従って、単なる口舌の雄をもってしては、真に人を感動せしめることは出来得ないのであります」とある。  
 登校日の昼休み神田駿河台大教室で、夏季合宿の山々や海原に向かって長時間の発声練習、深夜まで続く先輩からの指導、全国各地での遊説活動、各地大学主催の学生弁論・討論大会や学生国会参加など、伝統と実績を受け継いだ海部先輩世代から私たちの世代へ、そして現在世代へと受け継がれている。「弁論原稿は足で書け」「口先だけでは駄目」「辞(ことば)は相手に伝わってこそ意義がある」など今でも鮮明に覚えている。「海部先輩は法学部2回生を終え、編入学で早稲田大法学部3回生と雄弁会に転じた後も辞達学会との繋がりを保ち続け、首相就任時には中央大・辞達学会主催の祝賀会を盛大に挙行し、また第50回花井杯争奪全日本雄弁大会(2010.11.13)など諸行事にも参加している。「海部政治の根底に辞達イズムあり」と私には想えるのだ。  
 大学卒後も地元小笠公韶代議士秘書をしていた私は、海部代議士や鹿児島選出参院議員秘書長野佑也先輩(後に代議士、自治・厚生政務次官、政治評論家)の指導に預かり政治のイロハ、舞台裏を学ぶ。世に三角大福中の自民党派閥政治が続くなか、私は「東京診断」「地方自治の確立を願って」の学生弁論演題の通り、「何事も先ず地方に起こる」「地方が元気になれば国も元気」と気張って故郷に帰り市議1期、県議4期、市長4期と歩む。1989(平成元)年1月小松島市長初当選、平成全国初の市長となる。その夏8月海部首相誕生となった。自民党内第5派閥の旧河本派海部先輩に白羽の矢が立ったのは、国内外共に未曾有の激動の時代背景があった。内にはリクルート事件の拡大、宇野内閣下での参議院選自民党惨敗、衆参ねじれ国会(参院は土井たか子社会党委員長を指名、両院協議会及び衆院本会議の宣告手続きを経て首相就任)、衆院議員の任期あと一年の海部内閣政権運営は百人を超す竹下派の愧儡政権・選挙管理内閣と椰楡され、金丸ー小沢ラインの操り人形(パペット)と陰口されるなど政治現場の派閥力学に翻弄されたに違いない。外にあっては、中国の天安門事件、欧州での戦後東西冷戦構造、ベルリンの壁崩壊、日米構造協議の本格化、突発した湾岸戦争への対応など揺れに揺れた。こうした政治の現実、党内派閥力学の現場の状況をしっかり見据えて、民意を反映するクリーンなイメージや若返りを前面に選挙制度改革に緒をつけ、党内の圧力をかいくぐるようにしたたかに取り組む。  
 平成初の衆院選は「時代の変わり目を画する政権選択選挙」となる。田中角栄・鈴木善幸・福田赳夫首相経験者はじめ63議員引退、全立候補者953人中約半数の473人が新人候補、その争点は自民党政権維持か、それとも社会党中心の野党連合政権かの政権選択選挙だ。1990年欧州8カ国歴訪から帰国した海部首相は、6日後に衆院解散、2月18日投開票を決断、結果は自民党275議席の安定多数、社会党も85から136議席と大躍進となる。  
 全国市長会役員として要請活動を続けていた私は、海部首相の地方自治体現場への目配りに期待する。それらの具体例を挙げると、港町のトレードマークであった船車連絡のJR小松島港線廃止に伴う街中の跡地活用、竹下内閣1億円事業、その後のふるさと創生・地域総合整備債事業の活用である。運輸省港湾局・JR清算事業団などに要請、提案を繰り返しその骨子を海部内閣当時にまとめ、市民いこいの広場・福祉施設・出先官庁(海保・税関・職安・空港港湾事務所等)・関連して隣接する徳島日赤病院の移転・改築も事業化し保健・医療・福祉の中核エリア形成を目指す。また、日米構造協議において米側は、日本の流通機構が閉鎖的であるために米側の対日輸出が大きく妨げられているのでこれを緩和すべく大店法を規制緩和せよと迫る。規制緩和すれば全国各地でのスーパー、百貨店等の進出に弾みがつくが市内中心部商店街がシャッター街化する、その防止・再開発策として当該県市町村自治体が推進する道路・河川・圃場・バイパス整備等の国庫補助枠に連携して充実させる新たな道を開く。そのために中央省庁を横断する事業、即ち国道バイパスと県管理3河川・圃場整備一体化事業や国際港ターミナルと国道バイパスを結ぶ県道2車線化・市営住宅整備事業の一体化、市街地再開発と幹線道路整備事業などを日米構造協議関連事業として具体化し推進することができた。自治現場をよく知る自治政務次官の長野佑也先輩(鹿児島県選出代議士)にもアドバイスと力添えを貰う。  
 海部元首相が政治の現場を如何に重視していたか、そのエピソードを挙げる。総理就任間もない時期に「駄目でもともと」の厚かましさで総理室訪問を願い出た。願いがかなって面会実現、大好きだと聞いていた「滝のやきもち」持参で訪問、何時もの笑顔で迎えられた。市長に就任して間もない私は大いに緊張したが、「よく来てれた。まあ、座れ。思ったよりこじんまりしてるだろ」、やきもちをクンクン嗅ぎながら「三木先生に食わしてもらってから好きになった」、そして柔らかく「そうか西川君も内閣総理大臣やってんだな。頑張れよ」と言う。「何を先輩!総理大臣は先輩只1人、私は一市長に過ぎません」と。「何を言う、地域住民にとっての市長は、君ひとりだよ。考えてみナ、何事も国より先に物事は現場に起こる。それに対応するのは市長を先頭にそこに住む人々だ。1分の1の世界で孤独な選択と集中、相談できない苦悩・孤独な決断・関係者との対話・違う意見への謙虚な対応・揺るがぬ実践力等々やるべきことはきりがない、しかも先ず自分からなんだ。規模の大小でないんだ」。ドアを開けて閣議室を見せてもらう。そんなに広くない部屋に円卓テーブル、机上に硯と筆、ドアに近い皇居を拝する総理席、その左から時計回りに設置された年次順に各省大臣の席がぐるりと囲む。ここで閣議決定され、この国のむ方向が決められる、私は感極まった。頂いた愛用の水玉模様のネクタイを見るたびに、懐かしくその光景を思い出す。  
 次のエピソードは、海部首相の「重大な決意発言」である。総理総裁として政権の命運をかけた政治改革関連三法案を巡る政治の現場での攻防から、一気に激しい政治権力抗争となる。全国市長会で上京していた私は、三木武夫長女高橋紀世子(後に参議院議員)と2人で総理に電話し、私は「総理、国民の内閣支持率が高いのに辞めるのは理由が立たない。国民の意思・総理の政治信念に反しますよ」と激励申し上げた。総理、「よく分かる。でもなぁこれ以上やると肝心の政治も私もバラバラにされるよ」といわれた。こうして海部内閣は11月5日、818日間で幕を引く。三木イズム実践と海部カラーをしぶとく貫いたと言える。  
 三つ目、海部先輩らしい微笑ましいエソード紹介。「西川君なぁ、わしは地元愛知と同じくらい徳島が好きゃ」、「三木先生の地元やから?」「それもあるけど、わしの名前をナ(かいふ)と正しく読んでくれるのは徳島の人だけじゃ。大抵、(かいぶ)とか(かいべ)とかなぁ呼ぶのよなぁ。海部(かいふ)郡があるからな(種明かし)、ヘッヘッヘェ」。政治の現場と弁論・対話を身上とした海部先輩らしい一齣であった。


         旧総理室にて

(徳島文理大学総合政策学研究科教授 西川 政善)