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中央テレビ編集 


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自治随想
大和郡山市「平和のシンボル、金魚が泳ぐ城下町のまちづくり」

◆大和郡山市のあらまし
 昭和46年小松島市議初当選の私は、大和盆地のほぼ中央に位置する当市を視察第一号地に選ぶ。平安時代には、平城京の南端、羅城門を含む荘園一帯として発達し、江戸時代には、柳澤15万石の城下町、大和における政治、経済、文化の中心地として栄えた。明治時代以降は、繊維工業と農産物の出荷により発展し、昭和29年県下2番目の市政を施行している。現在は、農業、商業、工業とバランスの取れたまち、市街地の商店街、郊外の大型店舗の一方、稲作、イチゴ、トマト、丸ナスなど生鮮野菜をはじめとする近郊農業、工業ではメリヤスや皮革産業などの地場産業、県下第1位の工業出荷額を誇る昭和工業団地があり電子、機械工業を中心に就労の場となっている。大和郡山と言えば「金魚」、伝統的に金魚養殖は有名であり日本一と自負している。上田清現市長は活発に市政の舵取りを展開している。

◆「奈良モデル」による地方創生
 県営奈良競輪との連携を願って何度か訪問した私は、奈良県が人口減少・少子高齢化社会を見据え、地域の活力維持・向上を図るために、県と市町村、市町村間の連携・協働による「奈良モデル」の取組を推進、奈良県独自の地方創生を目指す現場を見せてもらったものだ。受けて人口8万7千の大和郡山市は、平成28年に「大和郡山市まち・ひと・しごと総合戦略」を策定、奈良モデルの発想の延長として近鉄郡山駅周辺地区と昭和工業団地の二地区において奈良県と連携協定を結んで各事業推進に努めている。


◆近鉄郡山駅周辺にシビックプライドの醸成
 これまで郡山城下を中心として公共施設や交通網、周辺の産業施設・教育施設などによる人口集積、通勤・通学など、加えて、城跡・社寺・町家など歴史的建造物、代表的な金魚養殖など伝統産業等独自の文化・イベント発信等々大きなポテンシャルを有してきた。しかしながら駅周辺は、現代のライフスタイルに合った機能やサービスの不足など、市の中心としての機能が充足しているとはいえず、観光客は伸び悩み地区の資源を活かし切れていない。そこで、市と県が平成26年「まちづくりに関する包括協定」を締結、28年に当該地区の持続的な発展及び活性化を図ることを目的とした基本構想を策定する。基本構想ではワークショップにおいて市民の声も取り入れ、まちづくりのコンセプトを「城下町の風情を活かし、いきいき暮らせるまちづくり」とする。この推進に当たっては、大和郡山市に愛着を持ち、まちづくりをリードする人材を育成することが重要であり、こうした「郡山大好き!のマインドを育てる」取り組みに力を尽くすというのである。


◆昭和工業団地の活性化で雇用の創出
 昭和30年代、全国的に地方では企業誘致による地域活性化に目の色を変えていた。視察時に聞いたところでは、大和郡山市は予算規模約20億円の時に、大規模工業団地造成を約100億円規模で構想したとか。とても実現不可能に思われたようだが、大阪万国博覧会開催が決定してから様相が一変する。各地で万博成功のための大工事が推進されることとなり、その一つに、西名阪自動車道建設があった。市は矢田丘陵の開発で出た土砂を高速道路建設の土砂として国に無償提供し、その引き換えとして国から矢田山住宅地及び昭和工業団地造成の開発予算を獲得し事業を大きく前進させたという。昭和38年に地区指定を受け、翌39年全国14の内陸工業団地の一つとして市が事業主体となって事業着手、昭和42年に108万5千㎡の造成完了し進出企業誘致と進む。現在、延べ従業員8千余名、製品出荷額等は奈良県全体の約60%を占め、宇宙開発に関連する企業や日本有数の技術を駆使した製造業など、オンリーワン企業が勢ぞろい、県下最大の工業団地になったという。思うにわが徳島県でも、昭和39年新産業都市建設促進法施行、続く徳島地区新産業都市指定で湧きに沸いた頃だ。  
 さらに昭和工業団地の発展を期して、平成27年大和郡山市、奈良県、昭和工業団地協議会の三社で「まちづくりに関する包括協定」を締結し、工業団地の活性化、従業員の働きやすさの向上、工業団地の環境整備、企業と地域の連携といった視点から三者が連携、協力して取り組みを進めているそうだ。特に市は、平成29年から昭和工業団地に議員を派遣し、工業団地の意見、要望の集約、調整に努めている。工業団地で働く女性従業員からは子育て環境の充実やワークライフバランス(仕事と生活の調和)の推進を求める声が上がったようだ。市は、工業団地に隣接する勤労青少年ホームを用途転用して保育園とし、大規模改修を行い50名の定員増をする。今後も「保育園のある工業団地」をテーマに、職住近接、ワークライフバランスの取れた工業団地としての取組を進め、市外からの労働者の移住や雇用の創出につなげたいとしている。



奈良県最大の工業団地である昭和工業団地

◆お城と金魚、地域ブランド向上のまちづくり
 私が半世紀近く前に見たお城と金魚によるまちおこしは生々発展していた。「平和のシンボル、金魚が泳ぐ城下町」の指標の中には、地域の個性である豊かな自然や歴史・文化などを十分に活かし、共通の誇りを持ち、心豊かに暮らすまちが脈々と息づく。お城と金魚はその核なのだ。地域ブランド向上に資する取り組みのいくつかを以下概略見ておきたい。


①郡山城石垣復旧、天守閣展望施設
 1580年筒井順慶築城、1585年豊臣秀長が紀伊・和泉・大和100万石余を領するにふさわしい城郭を構築する。「続日本100名城」、「日本さくら名所100選」に選定され、毎年のお城まつりは花見客で賑わいを見せる。しかしながら、四百数十年が経過し随所に痛みが激しくなる。平成29年、4年の歳月をかけて石垣の復旧、天守大展望施設が完成している。


◆郡山城にぎわいづくり事業
 修復された石垣や展望施設の完成を祝って、市内小学生、多数の市民の参加を得て天守台の上での元服式、金婚式、結婚式を執り行い、また、現代の城主になったつもりでそれぞれの企画やパフォーマンスを披露してもらう「1時間限定郡山城主」、天守台のブルーライトアップなどを行う。さらにこれらイベントに合わせて郡山城を案内してもらう「郡山城天守台・石垣の語り部」を募集、約100人の応募者が養成講座受講後にボランティアとして活動する。「市民が郡山城に関心を持ってもらう」ための企画なら何でもやるの気概だ。  
 また、市内観光施設や飲食店などの観光に役立つ情報を始め、郡山城再現CGを利用したVR体験機能、金魚スタンプラリー、飲食店・お土産物店などで利用できる「城下町クーポン」など、まち歩きを楽しむための機能を満載したWebサイトとスマートフォンアプリが連動した情報サービス「ココシル大和郡城下町」の運用も開始する。こうして様々な形で、郡山城を市民共有の宝ものとして語り継ぎ、市民の夢と誇りを醸成するとともにその魅力を城外に発信し城下町の賑わいづくりにつなげたいと意気込む。


②金魚のまち、大和郡山
 金魚養殖の由来は、1724年(享保9)、柳澤吉里候が甲斐の国から大和郡山に入部した時に始まると伝わる。幕末には藩士の副業として、明治維新後は職禄を失った藩士や農家の副業として盛んになったそうだ。昭和40年代になると、経済発展と養殖技術の進歩に伴い生産量が年々増加し、国内はもとより欧米諸国や東南アジアに輸出される。そして近年では、水質汚濁等の環境悪化などで生産量は減少したものの、養殖農家約50戸、養殖面積約60ha、年間約6000万匹が販売されているという。PRにも余念がなく、平成7年から毎年「全国金魚すくい選手権大会」を開催、平成29年の第23回全国大会・予選大会あわせて約3700人の参加者が駆けつけている。  
 また、日本各地の金魚の産地や金魚に縁のある自治体に呼び掛け「金魚サミットIN大和郡山シンポジウム」を開催し、金魚を産業・観光・心の癒し・アートなど幅広い切り口からとらえ、まちづくりや地域活性化につなげようとしている。さらに、金魚についての深い知識を身に付け、金魚の文化を内外に広く宣伝してもらうことを目的に「金魚マイスター養成塾」を開講、現在55名の「金魚マイスター」がボランティア活動にいそしんでいる。発想と実践が次のアイディアを生むことから、金魚と暮らし育てる文化を広めるため「全国金魚のお部屋・おうち(金魚鉢・水槽)デザインコンテスト」を実施し、全国から心を込めたアイディアあふれる329作品が寄せられ、そのうちの「自動改札機型金魚水槽」等3作品が製品化され実際に金魚を泳がせて展示している。  
 こうしてまちの至る所に金魚を目にする。市役所はもちろん、街角の灯籠や水瓶の中を覗けば金魚が泳ぎ、マンホールや市民公用車には金魚が描かれている。市民の手による「金魚が泳ぐ電話ボックス」、金魚が泳ぐカフェの「金魚テーブル」などなど、楽しいこと満載だ。



街角の金魚灯籠


自動改札機型金魚水槽

◆これからのまちづくり
 大和郡山市で学び実感したことの核心は、これからのまちづくりが地域に住む人、働く人など地域で活躍する人々の「つながり」であるといえる。来訪者に関心を持ってもらう魅力、来訪者へのおもてなし、地域を元気にするプロジェクトなど、地域でできることを地域の手で進めるまちづくりが肝心だということである。上田大和郡山市長は「市民が積極的にまちづくりに参加することが地域の活性化につながる」と確信し、市民の自主的なアイディアに基づき、まちづくりに主体的に参加する仕組みとして「大和郡山市まちづくりアイディアサポート事業」を平成18年から毎年実施している。様々な企画と実践がこの仕組みから生まれてきたのであろう。「ひとのつながり」が、まちの「魅力の基盤となる」との信条と見た。
(日本都市センター編「ひとがつなぐ都市の魅力と地域の創生戦略」参照)

(西川政善、徳島文理大学総合政策学部(兼総合政策学研究科)教授)