「誰だ?…」
元闇の守護聖クラヴィスは、微かな気配に振り向いた。
「どうした…。何故ここに…」
めずらしく狼狽の色を見せたクラヴィスの視線の先には、
現女王アンジェリークがひっそりと佇んでいた。
今を去ること1年ほど前、クラヴィスは、自分の力の異変に気付いた。
僅かだが、弱まってゆく、サクリア…
時を同じくしてその僅かな異変に気付いたのは、女王アンジェリークだった。
やがて、他の守護聖達も知ることとなり、
次期闇の守護聖の選出、交代のための引き継ぎと…めまぐるしく時間は過ぎ去っていった。
そして今日、聖地を去ることの報告と別れを告げるための女王への謁見、
他の守護聖達との別れの公式行事を終えて、
今、自室でやっと人心地つこうとしているところであった。
「…アン…陛下、何か…?」
何故、今ここに、アンジェリークが尋ねてきたのか、と言う事実に戸惑いながら、
クラヴィスはアンジェリークの方へ歩み寄った。
「アンジェリークでいいの…陛下とは呼ばないで…」
アンジェリークは白い軽装のローブの胸元で、組んだ指を振るわせながらそう呟いた。
「公式の行事は全て終わりました。
そして、私は女王として、貴方に何も望むことが出来ない事も知っています。」
クラヴィスを見つめる大きな翠の瞳が潤んでいた。
「明日、ここを出ていかれるのですね。これから…どちらに行かれるんですか?」
消え入りそうな声で、アンジェリークはそう言った。
「何処に…?と言っても仕方がなかろう…。所詮、私は流浪の民なのだから…な。」
クラヴィスは何事もなかったかのように、そう言いながら、ソファーに座るように促すと、
彼女は小さく頷いて勧められるまま腰掛けた。
「…ここに来たのは女王としてではなく、
ただのアンジェリークとしてひとことだけ貴方に言い残した事があったから…」
小刻みに震える細い肩…支えてやらねば倒れてしまいそうだ…と、
クラヴィスは思いながらアンジェリークを見つめていた。
「………?」
「ずっと…お慕い申し上げていました。クラヴィス様。」
思いつめたような瞳でクラヴィスを見つめながらアンジェリークはそう言った。
「陛下…」
「お願い、陛下とは呼ばないで…
私の立場とか、これからの事とか、今、貴方にお会いするのがどういう意味なのか、
色々考えて、全て承知の上でここに来たんです。
ただ…この想いを抱えたまま、女王であり続ける自信はないという事がわかったから…」
アンジェリークは視線を下に落としてそう言った。
膝の上に重ねられた手は、指が白くなるほど握り締められていた。
「あの日…女王試験の最終日…
私にもう少し勇気があれば、 もっと早くこの気持ちを貴方に伝える事が出来たのに…」
フルフルと頭を振るしぐさが、とても痛々しく、そして可愛らしいと思いながら、
クラヴィスは黙って聞いていた。
「いつまでも、ずっとこのまま聖地でいられるのだと思っていました。
まさか、クラヴィス様が先にこの地を去る事になるなんて、考えてもいませんでした。
だから、この気持ちを打ち明けることなく女王になって、
そして時々貴方を見つめているだけで幸せでした。」
「アンジェリーク…もう、言わなくてもいい…何も」
クラヴィスは、アンジェリークの頬を流れる涙を指で拭いながら彼女の言葉をさえぎると、
「もう…泣かないでくれ…
私はお前の笑顔に、随分、救われたのだぞ。今まで…
……すまない。泣かせたのは、私だな…」
懇願するような、とても優しい口調でそう囁いた。
「隣に座ってもいいか?」
クラヴィスはそう言いながら、アンジェリークの傍らに腰掛けた。
そして彼女の、春の陽だまりのような金の髪を一房もてあそびながら、
「この金の髪の乙女は最期まで私を惑わすのだな…アンジェリーク…」
極上の笑顔でそう言うと、その一房の髪にそっとくちづける…
愛しむような、優しいアメジストの瞳がアンジェリークを見つめ続けている。
「クラヴィス様!」
アンジェリークは耐えきれず、思わずその広い大きな胸の中に顔を埋め、声を殺して泣いた。
クラヴィスは彼女を抱き止め、その金の髪をなでながら天井を見上げて溜息をついた。
「…このまま…
このまま、お前をさらっていく事が出来たなら………
いや、もう何も言うまい。今こうしてお前がここにいるのだからな。アンジェリーク…」
「クラヴィス様?」
アンジェリークはクラヴィスの言葉に驚き、戸惑い、そして頬を染めてクラヴィスの顔を見上げた。
「神よ…罪はただ、私の身の上にだけ降るがよい!
今だけは…ただ、ひとときの夢だけでいい…」
クラヴィスはそう言って、アンジェリークを引き寄せ、そのに唇にそっとくちづけた。
めくるめく甘い感情の渦に身を任せながら、
このまま時間が止まって欲しいとアンジェリークは無理を承知で願わずにはいられなかった。
アンジェリークの瞳からは涙が溢れていた。それは後悔の涙ではなかった。
朝靄もまだ残る早朝、アンジェリークは自室の窓から、
去り行くひとつの人影を見送っていた。
どれほど離れていようとも、彼女にはわかっていた。
その影が、長身の艶やかな黒髪を長く伸ばした、
穏やかでとても優しい瞳を持った青年である事を…。
昨夜の、あの短い逢瀬が、この宇宙にどのような影響をもたらすのかは、彼女自身知る由もない。
しかし、彼女には迷いはなかった、自分に正直である事を選んだその時から。
今までとは違う装いで、もう二度と帰る事のない旅立ち…
何もかも捨ててついて行きたいという想いは否定できない。
しかしそれは、許されない事と知りすぎていた、二人だった…
「これが永遠の別離になるのかしら。
彼を愛した事に後悔のかけらもないわ…」
小さくなって行く影が、涙で霞みそうになるのをこらえながら、
この想いを抱いたまま生きていけると、彼女は確信していた。
これは、別離などではない…
そう思った時、その青年が、ただ一度こちらを振り向いたように見えた。
「クラヴィス様…
私は、貴方が何処にいようとも、いつも貴方の幸せを祈っています。」
〜END〜
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