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中央テレビ編集 


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美術館からのエッセイ

◆特集 伊原宇三郎って?
 県立近代美術館では、所蔵作品展 徳島のコレクション第3期」の一環として、「特集 伊原宇三郎って?」を開催します(2020年12月5日~2021年2月14日)。
 美術館が開館した頃、伊原宇三郎は徳島でとても有名な作家でした。昭和を代表する洋画家の一人であり、徳島の人たちは生前の伊原の活動を鮮明に記憶していたのです。しかし今年で開館30年、伊原が亡くなって44年余り、さすがの伊原も人々の記憶から遠ざかり、どのような絵を描いた画家だったか、具体的にイメージできる人は少なくなっていると思われます。
 伊原宇三郎(1894~1976年)は、徳島市秋田町に生まれました。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科を卒業し、1925(大正14)年から5年間フランスに留学しました。フランスでは西洋の伝統的な絵画理論と技法を研究するとともに、ピカソの作品から強い影響を受けました。帰国後は帝国美術院展覧会で受賞を重ね、同展審査員や東京美術学校助教授を務めています。ピカソに関する著作も著しています。西洋の伝統的な絵画理論・技法を日本に根付かせることに大きな功績があった人であり、同時に日本の美術界にピカソ・ブームが巻き起こるきっかけを作った人でした。
 戦争中は従軍画家としてアジア各地を訪ねて戦争記録画の制作に従事し、戦後は日本美術家連盟委員長や日本著作権審議会委員長など美術界の要職を歴任しました。
 この特集では、コレクションをもとに伊原の画業を振り返ります。また、これまで紹介されることがなかった伊原が描いた雑誌の挿絵や表紙絵などの仕事もご覧いただきます。ぜひ会場に足をお運びいただき、伊原の世界にふれていただけたらと思います。


アトリエの伊原 1939年

◆フランス留学
 1921(大正10)年に東京美術学校を卒業した伊原は、1925(大正14)年から1929(昭和4)年にかけて、フランスに留学しています。留学の前年に結婚し、新妻をともなっての留学でした。
 当時のフランスはエコール・ド・パリの全盛期でした。洋画家にとってフランスは憧れの場所で、多くの日本人画学生が留学していました。伊原も留学当初は、他の日本人画学生と同じように、フランス美術界に流行していた新しい表現に目を奪われています。《座れる裸婦》は、フランス美術界で新進画家として注目を集めていたジャン・スーベルビー(Jean Souverbie, 1891~1981年)の作品を意識したものと思われます。
 しかし、ある日ルーヴル美術館で、1枚の絵を前にフランス人画家たちが構図法について議論しているのを見かけ、衝撃を受けたといいます。彼らが語っていた西洋美術の伝統的な構図法とは、伊原がほとんど知らないものでした。「日本での美校生活五年など零に等しい」と思い知らされ(「ピカソに憑かれる」『美術手帖』1955年1月号)、それ以降、留学の目的を西洋の伝統的な絵画理論と技法の修得に定めたといいます。


伊原宇三郎《座れる裸婦》1926年 油彩 キャンバス


◆ピカソ作品の模写
 留学時代の伊原は、多くのピカソの模写を制作しています。現存するものだけでも14点が確認できます。
 フランスで伊原が決定的な影響を受けたのはピカソでした。しかし留学当初は「ピカソの良さをはつきり感じることが出来なかつた」、「誰でもがやれ(そう)な仕事」だと思ったと語っています。(「ピカソ論を書く迄」『みづゑ』1933年2月号)  
 しかし、フランス美術界で大評判だったピカソが「ハッキリ解らぬことが口惜しく」、「一枚でも列んだ画商があれば(どん)な遠方へでも追かけたり、写真で記憶模写を沢山したり、一時は死にもの狂い」だったといいます。(「ピカソに憑かれる」『美術手帖』1955年1月号)。そして模写の作業を通じて、表面的な目新しさにかかわらず、ピカソの作品が構図法など西洋の伝統的な絵画理論をしっかりと踏まえていることを理解していきました。

伊原が制作したピカソ作品の模写の一部(留学期)


帝国美術院展覧会への登場

 1929(昭和4)年7月に帰国した伊原は、10月に開かれた第10回帝国美術院展覧会に滞欧作《椅子によれる》を出品し、特選を受賞しました。鮮烈な画壇デビューです。翌年の第11回展では《二人》で、1年おいて1932(昭和7)年の第13回展では《榻上二裸婦(とうじょうにらふ)》で特選を受賞し、1934(昭和9)年の第15回展では審査員に就任しました。これらの活動を通じて伊原は、帝国美術院展覧会を代表する洋画家の一人と目されるようになりました。
 伊原が受賞した女性像は、いずれも静謐で安定感がある画面です。フランスで苦心して習得した構図法に忠実に則っています。現在の日本では、少し絵画や写真を習った人なら誰でも耳にしたことがある構図法ですが、当時の日本では一般的なものではありませんでした。
 また、豊満な四肢の量感表現は、それまでの日本には希有なもので、ややもすれば平板になりがちだった日本洋画に、伊原が初めて西洋の本格的な量感表現を持ち込んだといわれます。パリで傾倒したピカソの「新古典主義の時代」の作品に学んだものでした。


写真 [構図法の一例]
 この作品のように、画面に三角形を形作ると安定感が生まれます。また、画面を縦横それぞれ3分割した線の交点に、描く対象のポイントを配置すると、心地良く落ち着いた雰囲気が現れるとされています。

《二人》1930年 油彩 キャンバス

◆戦争記録画

 日中戦争から太平洋戦争へと続く長い戦争の時代が始まると、伊原は戦争記録画を描くため、陸軍省嘱託画家として中国大陸や東南アジア各地へ出かけました。中国戦線に取材した《汾河を護る》(第2回文部省美術展覧会出品作)は、伊原が描いた最初の戦争記録画です。夜間の戦闘に備え、昼間日本兵たちがトーチカで仮眠をとっています。この作品を皮切りに、戦争期の伊原は数多くの戦争記録画を制作し、戦争中は戦争記録画を代表する画家と目されました。
 戦後になって伊原は、戦争責任を問う美術界の声に対し、日本人として「当然の協力、奉仕と考えていた。戦争に勝ちたかつたからである」と語っています(「戦争美術など」『美術』1945年11月号)。もっとも政府が主催する帝国美術院展覧会の主要作家であった伊原にとっては、逃げることができない仕事であったという側面もあったはずです。
 なお、伊原が描いた戦争記録画はほとんど現存しません。終戦後、米軍の進駐を前に、他の作家が描いた戦争記録画とともに廃棄されたようです。


《二人》1930年 油彩 キャンバス

◆戦後
 戦後も伊原は旺盛な活動を続けています。終戦の翌年に開かれた第2回日本美術展覧会では審査員に就任し、その後もしばしば審査員を務めました。また、日本美術家連盟委員長や日本著作権審議会委員長をはじめ、さまざまな美術界の役職を引き受けています。
 《丘の風景》は、1958(昭和33)年に開かれた改組第1回日本美術展覧会の出品作です。伊原は1956(昭和31)年から57(昭和32)年にかけて約10ヶ月フランスに滞在し、各地を写生して歩きました。その時の写生をもとに、帰国後仕上げたものです。留学以来27年ぶりのヨーロッパ滞在は、伊原にとって刺激に富む日々でした。数多く引き受けていた肩書きや役職から離れ、絵を描くことに専念しようと決意したといいます。


《丘の風景》1958年 油彩 キャンバス

◆表紙絵などの仕事
 洋画家、日本画家を問わず、多くの日本の美術家は雑誌や本の表紙絵、挿絵、絵はがきなどを手がけています。ほんの一握りの画家を除き、いくら高名な画家でも絵だけでは生活が難しいという事情がありました。あまり知られていないことですが、伊原も生涯に数多くの表紙絵や挿絵を描いています。もっとも、高名な伊原だからこそ、注文がひきも切らなかったという側面もあったようです。
 戦後間もない頃まで、表紙絵や挿絵、絵はがきなどの原画は、印刷が終わると画家の手元に返されず、編集者や印刷所で処分することが多かったようです。『キンダーブック』の挿絵原画は、珍しく現存を確認できたものです。一般読者向けに描いた原画なので、よく知られた伊原の作品とは違った明快な画風ですが、的確な描写力は伊原ならではのものです。


《作品名不詳(キンダーブック挿絵原画)》制作年不詳 油彩 キャンバス

                                                     江川 佳秀(主席)

徳島県立近代美術館12月の催し物

〔展覧会〕
○ドイツ 20世紀 アート-人・対話・未来-  
 ~フロイデ!ドイツ・ニーダーザクセン州友好展覧会~
 開催中~12月6日(日)
○所蔵作品展 徳島のコレクション2020年度第3期(前半)  
 特集 伊原宇三郎って?  
 2020年12月5日(土)~2021年2月14日(日)

[所蔵作品展関連イベント]
○展示解説「20世紀の人間像」  
 2020年12月13日(日)14時~14時45分